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  • 6月18日額田城跡清掃をおこないます。街づくり委員会の協力がえられます。午前8時の集合となります。

  • 5月21日、額田地区市民運動会が好天の中、開催されました。例年ですと秋でしたが今年からとなりました。市民と小学校、保育園と合同での運動会はにぎやかに和気あいあいのうちできました。怪我もなく良かったですね。

  • 皆さんは「おもてなし」と聞いて、どのようなことを思い浮かべますか?お宿や観光地のスタッフなど、観光客を直接お出迎えする人たちのものと思うかもしれませんが、観光客が旅行中に接するのは、そういった人たちだけではありません。すれ違う地元の人が明るく笑顔で挨拶してくれたり、地元の美味しいお店を教えてくれたりしたら、那珂市のイメージアップに繋がるはずです。観光客のみなさんに那珂市の魅力を存分に体験してもらい..

  • 毘う遮那寺の150本の牡丹が満開である。当寺は大般若経600巻で有名、1192年文覚上人の開基、女流俳人中島素嵐の句碑がある。

  • さ萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に平将門の父良将が創建。 創建当初は勝楽寺と号し,律宗で奉仕されていました。その後,貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を,暦応4(1341)年に9代 貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。 勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えたが,正宗寺は佐竹..

  • 表向きは大日本史編纂など功績があった光圀は果して名君であったか。青年期の光圀は今の言葉でいえばぐれていたかぶきものといえる。そして女狂いは60を過ぎても続いたようだ。しかし常陸の国の殿様としては女狂いという価値基準が現代とは違うのかもしれないが。『水戸黄門 鈴木一夫著 中公文庫』からひも解いてみると、……老境六十過ぎても女色寵愛の癖は続き「女色に耽り給い、ひそかに悪所に通い……」と、 若き時代は云..

  • 5月6日、中央公民館で那珂市歴史愛護協会の小林副会長の講演があった。聴講者35名でテーマは水戸黄門と助さん、格さんの実像であった、テレビでお馴染みな水戸黄門であるが子の3名の関わりは大日本史編纂という水戸家の大事業を為さんがための光圀と学者の二人と言う実像についての講演であった。彰孝館総裁を後にやることになる助さん格さん。光圀の史臣と言われています。史臣たちは全国各地に史料を求めて旅をしましたが、..

  • 藩という定義は中国の歴史から来ています。江戸時代表立って藩と言うのは使われませんでした。江戸末期になって使われてきたと言われていますが、儒教の学者は使っていました。それは新井白石でした。『藩翰譜』(はんかんふ)は、江戸の家伝・系譜書。著者は儒者の新井白石で、全12巻藩譜との略称でも呼ばれる。元禄15年1703年成立。元禄13年の甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績..

  • 佐竹氏は1602年に秋田移封となった。この頃まで常陸の国では領民はわーほいという行事をしていた。鳥追いとかどんど焼きとかうわれた、正月のしめ飾り等を燃やしたと同時に鳥追い行事でもあった。ワーホイ、ワーホイ、今日はどこの鳥追いだ、 鎌倉様鳥追いだ、ワーホイ、ワーホイ、 いのしし、かのしし、かのめに追われれ、ワーホイ、ワーホイ」というはやし言葉であるが私の幼少の記憶では「わーほいだ。わーほいだ。今日は..

  • 鍬入れの行事は額田でも行われていた。1月11日とされた。茨城の行事を読んでたら幼い時を思い出した。畑の真ん中に連れて行かれた。何をするのかと思った。毘盧遮那寺に向かって、大きな声で「からす からす」とどなったことをおぼえている。農家の仕事始めの儀式で広辞苑には『鍬初め:農家で正月の吉日に、吉方(エホウ)に当る畑に初めて鍬を入れ、餅または米を供えて祝うこと。田打正月。鍬初め。』とある。 『カラス、カ..

  • 那珂市協働の提案2年目のホームページおよび看板。ベンチ、幟旗の提案が正式に4月末に受理された。後半50万の助成金が受理された。今後の活動が期待さる。なお、プレゼンにあたった武藤博光会長、お疲れ様でした。

  • 観光かるたの市民協働提案が4月末に決定され正式通知が来た。これにより、観光ボランテア那珂の那珂市観光かるたセットの数百セット、さらに、絵手紙、水墨画、小学生の手作りのかるたも作成される予定である。額田城跡始め阿弥陀寺、鈴木家住宅、額田神社等がかるたに組み入れられる。

  • 昔はお静さんと言うと静神社を指した。静神社は常陸の国の二の宮で奈良、平安の延喜式の名神大という鹿島、香取と並ぶ静神宮であった。常陸一の宮は鹿島、そして三の宮は水戸の吉田神社である。常陸風土記に倭文の里として出てくる。万葉集に防人として倭文部のから麻呂の名が残っている。火災のあった焼け跡てんぽ年間に銅印が発見され、本殿に収められている。

  • 茨城県とJRの提携の観光ツアーに21名が参加し、那珂市にやって来た。常福寺や静の桜祭りをみながら静神社、手接足尾神社、一乗院等を見物、観光客の意見としていろいろといいところあるのに宣伝不足かな。額田城跡も来てみたい。多数の声に励まされ、意欲も前向きだ。

  • 額田城跡保存会(武藤博光会長)は4月22日、まちおこしの一環として額田城ののぼり旗100本を製作するための提案を提出した。額田城、額田藩の名産物の冠銘柄品の振興策でもある。引き続きベンチ、看板やホームページ費用も出された。積極的提案が注目される。同時に観光かるたも注目される。

  • 本日、額田びる遮那寺の牡丹が咲いた。この花を見に常陸太田、日立から7名の観光客がおとずれた。牛久の神谷ミュウジアムに訪問の集合場所でもあったのだ。牛久もシャトーが震災の傷跡はあるもののシャトー正門、レストランは復旧していたし、庭園の池のコイも元気に泳いでいた。懐かしの蜂ぶどう酒をお土産に帰宅の途についた。

  • 4月16日、会員多数の参加をもって総会が終了しました。昨年は市民協働の一貫としてホームページを立上げ各方面から評価も高まりつつあります。また、街角案内人のTシャツもでき、4月2日、3日の両日、阿弥陀寺の桜祭りで額田城跡に誘導する作業に早速着用し活躍をいたしました。今年度の活動は城跡整備、額田観光スポットの看板立ち上げ、各種講演、機関誌『額田城跡』の発行等活動をしてまいります。また観光ボランティア、..

  • 東日本大震災の東北の被災地に5年も野菜を送っている仲間がいる。額田の畑で8名で耕作しているが何でも、4月に高校を卒業して50年を迎えたそうだ。4月16日に常陸太田市交流センターで太田一高在校生性や卒業生を含め総勢1000名をもって、卒業50周年記念式典が開催された。その卒業生の感想文が手に入ったので紹介したい。われわれにとって節目の太田一校卒業50周年が終わった。記念式典での来賓の方々、生徒会や代..

  • 3月31日で読札投稿は締め切りました。お陰をもちまして200を超える読札が集まりました。ありがとうございました。日本の桜名所100銭の静峰ふるさと公園春の風物詩 静峰公園の八重桜まつり鎌倉時代の遺風を残す 常福寺鐘楼義家の忘れ形見の静の椋の木幻の古代織物倭文織の復元と製作を続ける倭文機グループ外濠、内濠今なお残る額田城跡光圀様の娘を迎えた鈴木家住宅ライトアップに浮かぶ阿弥陀寺のしだれ桜たっつぁいの..

  • びる遮那寺の山門前に咲く薄墨桜は額田で最も早く花をつけ、長もちもする。お彼岸の頃より2週間も花をつけ何とも言えぬ白さである。追うようにしてしだれ桜、一般的桜であるソメイヨシノも咲き始めた。

  • 4月1日からの咲き誇る阿弥陀寺の桜は満開を迎え、散り始めている。ガマの油売りや額田城跡への誘導もあり、1日1000名も来ている。老人会の協力により、1000枚のチラシも無くなってしまっている。露店も1日から出ていたが6日で終了した。観光案内人の方々、街角案内人の方々ご苦労様でした。

  • 4月に入り阿弥陀寺のしだれ桜が満開となりました。出店が出て盛り上がりをみせ、がまの油口上も3日にわたり熱演し好評を博しました。額田の街角案内人の額田城への誘導が行われました。地元の老人会の協力も得られ1000人の方々が見えました。

  • 飛来する白鳥の雄姿 古徳沼平安の朝廷の色 雛飾り空高く聳える 毘沙門 国守るわが郷土 ひまわりの色に輝きてつるし雛 色とりどりの布 ゆらら新しき地域おこしの旗印カミスガプロジェクトあなたにも七福もたらす七運汁有が池 水面(みなも)に映る あきあかね鐘楼としだれ桜に人集い 郷に響かん阿弥陀寺の鐘このようなかるた読札が続いて届いています。

  • 茨城県那珂市観光かるた応募つづき、明日締め切りになる。駆け込み的に応募が多数来ていて喜ばしい限り。『織媛』像凛として建つ静神社白鳥も好む自然美古徳沼『風土記』にも記録が残る『静織の郷』孫子マで継げ地域の大助まつり水面を優雅に泳ぐオオハクチョウの古徳沼わがふるさとの歴史をたどる3つの城跡 額田城 瓜連城 古徳城一乗院郷土を護る毘沙門天古代より湧き出る泉七つ洞絵のように静峰染める八重桜伝統誇る山車提灯..

  • 那珂市の額田城跡保存会の市民協働提案がなされた。ホームページの充実と寺社仏閣の看板およびベンチの作成についての補助金申請した。同時に観光ボランティアガイド那珂についても観光かるた作成の補助金申請の提案がなされた。

  • 4月29日、結城から女性の団体が那珂市にやってきます。結城紬で有名な所でかって訪問した際、静織の神様の静神社を参拝に来ると言っていましたが、今回は団体でくるという。静峰公園、静神社、常福寺、一乗院の予定です。

  • 1、那珂市は緑がいっぱい。2、那珂市は歴史があり、寺社仏閣もある・3、古くからのお祭りもある。4、全国でも有名ない偉人もいる。例、根本正5、公害がない。災害がない。これは小学生から見た那珂市の素晴らしいところです。確かに古くからの歴史があり、他市に比べて神社仏閣も多い民俗、風俗からも豊かな地域である。居住する側から見て、地理的にも平地であり、高台に位置し、災害もない。安全性からも、原子力はともかく..

  • 1192年にびる遮那寺は文覚上人の創建と言われています。文覚上人は武士で遠藤盛遠といいました。平安の神護寺の再興等歴史上も有名である。平安末期の神護寺は、大変衰微していた。  平家物語の作者によると、「久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧に交はり、扉は風に倒れて落ち葉の下に朽ち、甍は雨露におかされて仏 壇更にあらはなり、住持の僧もなければ、稀にさし入るものとては、日月の光ばかりなり..

  • 4月1日2日は額田城跡内阿弥陀寺のしだれ桜が咲き始めます。茨城県の歴女の皆さん、阿弥陀寺の桜は毎年NHKでも放映するくらい有名です。しだれ桜を見ながら、額田城跡に訪問したらいかがですか。面積で東京ドームの21.5倍ととてつもなく大きい城なんですよ。那珂市の観光ボランティアがご案内しています。

  • 那珂市に昨年名誉市民になった根本正がいる。明治初期から大正時代にかけての日本での政治家であり見直してみたい。 根本正は、茨城県でごく少数の人にJR水郡線を作った代議士として知られています。しかし、明治・大正 の時代の数ある政治家の中で、根本正ほど子供の立場に立って、子供が健全に成長し、自立できる人間になるよう努力した政治家はあまりいません。根本は明治 31年衆議院議員に当選すると「国民教育授業料..

  • 平成28年度額田地区三好会『中原昌幸会長』は4月11日、10時30分より那珂健康センターで開催される。今回10名をこえる新入会員が増加予定であり今後の活躍が期待される。

  • 3月末までの観光かるた募集みー源義家ゆかりの天をさえぎる大きな静の椋の木ひーひまわりの咲く季節に那珂を第2のふる里と決めた。むーむくろじの珠で名高い正覚寺へー紅花と万姫 鈴木御殿で咲き比べひなまつり 発祥の社 淡島の宮

  • 年配者に教えられた。久慈川につい先ごろまで架かっていた通称闇橋は東日本大震災で流され、無くなってしまった。額田の先輩が河合でこの橋を闇橋と呼んだら叱られたという。戦時中からの俗称であって、本当の名は岩船橋と云うそうな。近くにそういえば岩船神社がある。この岩船橋を通って、参勤交代が行われたというから尚びっくりだ。

  • 3月15日午前9時30分より額田城の歴史についての1時間の講義があり、つづいて実際の案内をし、昼前で終了した。額田城の創建から落城までの話、最後の殿様小野崎昭通の伊達家を頼っての逃亡劇を知ることができた。額田をテーマをに人に良くする額田人は年号が1249年をみんなに印象付けられたと思う。

  • 歴女ブームが到来し、武将、刀剣、城と移ってきました。時代の流れは速いものですが、昔からの歴史は古文書等の発見により、変わることはあっても、悠久の歴史を刻んでいます。水戸市から日立から訪問者も増えてきました。額田城と言ってもピンとこない方がいるかもしれませんが、東京ドームの21.5倍の面積と言ったら大変なものであることが分かるでしょう。茨城県水戸市の歴女の皆さん、隣の那珂市にこんな城があるということ..

  • 1月から募集をしております観光かるたは那珂市のみならず、近隣の常陸太田市、大子町、ひたちなか市、水戸市から集まっています。句が重複する場合は先のものを取り上げています。有が池 コウホネの花 可憐かな阿弥陀寺の枝垂れ桜の花見事いにしえ人の 暮らし伝える 下大賀遺跡ウバユリの群生みられる額田城本丸瓜連は冬告げる白鳥の古徳沼玄関口梅の家の おすすめの味 額田城縁起だるまの一乗院お静さんと呼ばれる社に 歴..

  • 那珂市からも桜田門外の変に参加した浪士が2人います。静神社と三島神社の宮司です。水戸藩への迷惑が及ぶことを考えて脱藩という手段をとり、事に及びました。それぞれ、斎藤監物と海後 磋磯之介 で3月3日は雛の節句にあたり、必ず大老井伊直弼が登城すると睨んだからでした。これが幕府崩壊の引き金になっていったわけです斎藤監物  静神社神官(一八二二〜一八六〇)名は一徳、号は文里。加倉井砂山や藤田東湖に学び、水..

  • 茨城県那珂市額田の観光スポットの一つ愛宕神社が東日本大震災の破損部が修繕され、安全性が確認されましたので観光スポットとして復活いたしました。因みに愛宕神社は防火の神様です。また、高台は愛宕山古墳もあります。

  • 3月15日、那珂市額田地区まちづくり委員会による講師小田部一彦による講演が行われるが10年前に日立市で講演した内容があり、予備学習をすべく掲載いたしました。内容ただいまご紹介いただきました那珂市額田の小田部と申します。今先生というようなことでご紹介されましたが歴史学者でもなく研究者でもなく単なる那珂市から来た観光案内人とお含みいただけたら、幸いです。本日の講義も皆さんと一緒に学習する機会を得たとい..

  • 今歴女ブームですが、茨城県那珂市にある額田城、額田神社、淡島神社が観光対象として注目されています。中でも日光東照宮の流れをくむ後藤流の彫刻山車や出産や針供養、人形供養の淡島神社は特に注目されています。常設の山車4台が見られ那珂市観光課へ申し込めば観光案内人が案内いたします。10名以上を目途に申し込んでください。茨城県内で歴史スポットでお勧めを質問されている問い合わせがありましたが額田城、鹿島八幡神..

  • 1月に那珂公報、茨城新聞にて掲載されました茨城県那珂市の観光スポットを句で読んでまとめる那珂観光かるたの読札が観光ボランティア事務局に引き続き集まっています。1、額田城 本丸 二の丸 三の丸 歴史を刻む散歩道2、有が池 コウホネの花の中 鯉雄々しく泳ぐ3、金色の小さな鳥の形して銀杏散る散る毘盧遮那の寺4、富士山の古墳の森に いにしえの誰をか眠る5、宮桜 大樹の皮に時刻み まだまだ枯れんと満開の花6..

  • 額田城が出来た時代、城を中心して、地区の名が命名された。城から見て有が池の向うの小山を向山、高い岡が高岡、城の後方が本後、辛目手門の柄目町、白鳥の飛んだ白鳥地区、岩桂寺のあった『がんげじ』等命名された。水戸の梅香町は岡本梅香斎の作った街である。久慈川に架かる榊橋が土木内の『木』と石神の『神』が合わさったという語源は面白い。

  • 平成28年2月17日現在で観光ボランティア那珂の那珂公報を通じての募集は100件の大台を超え、順調に推移している。今回読札は次のとおり。1、ウバユリの群生みられる額田城本丸2、縁起だるまの一乗院3、お土産はニッキの味のつぼ焼きを4、木内の酒とネストビール5、久慈川のたもとにさかえし額田宿6、古徳沼に白鳥群れ立つ7、桜百選静峰公園8、椎の大木三島神社9、つるし雛にてまちおこし10、額田城址東京ドーム..

  • このほど、水戸市史、常陸太田市史から棚倉街道は横堀街道が本街道であることがわかった。水戸市史には枝川、田彦、額田、太田、町屋等に駅があり、駅間の距離、馬の乗り賃が表であらわされている。参勤交代の東北の諸藩は当初、奥州街道を使ったが、財政逼迫で江戸への旅を宿等の安い棚倉街道を通行するようになった。郡山 に移った額田藩2万石は守山藩となった後も松川(大洗)を有し、棚倉街道の往来を行き来していた。

  • 文化財愛護協会の民俗部会では2月13日に那珂市中央公民館にて民俗部会としての発表会を行った。昨年7月に開催された額田まつりの前に実際に額田の屋台 山車を見学しようとの意図のもと、6月29日に観光ボランティア那珂の説明を聞きながらの内容把握を目的としたもので、歴史的遺産の逸話等を交えての発表があった。また、7月25日の額田まつりの内容と事前に開いた額田まつり今昔物語展の内容が茨城新聞のDVDを用いて..

  • ,那珂市の観光かるたの読札が観光ボランティア那珂の手によって募集され、平成28年2月に続々と集まってきました。読札は次の通りです。弘願寺 手あわせ なでる くすぐり地蔵 いにしえ人の 暮らし伝える 下大賀遺跡城跡と  社を結ぶ 静古徳古道源義家ゆかりの 静の椋の木 (秋山珠江様)白鳥の飛翔の雄姿 古徳沼南朝の 歴史を語る 瓜連城址倭織(しずおり)の神 荘厳に 静神社久慈川と玉川 逢瀬の鮎光る  鳥..

  • 水 戸市史、常陸太田市史から、江戸時代の棚倉街道は横堀街道が本街道であることがわかりました。水戸市史には枝川、田彦、額田、太田、町屋等に駅があり、駅間の距離、馬の乗 り賃が表であらわされています。参勤交代の東北の諸藩は江戸時代の当初、奥州街道を使ったが、財政逼迫で江戸への旅を宿等の安い棚倉街道を通行するようになりました。郡山 に移った額田藩2万石は守山藩となった後も松川(大洗)を有し、棚倉街道の往..

  • 額田高齢者の会、三好会(那珂市額田の中原昌幸会長)は2月10日(水)午前11時、今年初顔合わせの会を開きました。参加者26名と顔ぶれがそろった。これをもって今年度の活動は終えたが多数の新規加入者ができ、今後の活動も期待できる。今年度の活動はカラオケ大会の親睦、自転車競技、ボランティア清掃(額田城跡、額田神社、きだまり)等で幕をとじた。

  • 常陸太田市史を読んでいて、額田に関連する長久保赤水の七友立川敦美に当たった。那珂市史には単に原好誼軒の師であると書かれていたから繋がった。物事は裏から見るとすべてが繋がる。原好誼軒は白羽生まれで原家へ養子に入ったのである。そもそも婿入りする前から立川は師であった。明治に入って最初の代議士も立川だとすると常陸太田を長きに亘ってリードしてきた一族だね原好誼軒は久慈郡白羽の渡辺家に生まれ、寛政5年に額田..

  • 大和田内記の金砂日記は江戸の初期秋田から佐竹藩の使者が調査のため常陸の国へ来た時の資料である。それによると、常陸太田の久昌寺のあるところに佐竹菩提寺天徳寺は存在した。佐竹の秋田移封後、佐竹色を消すため久昌寺を建立したものと思える。(常陸太田市史より)

  • 1591年額田城落城佐竹氏の北家、南家の叔母からの密使の手引きで久慈郡太田村天徳寺に逃げ込む。1462 年(寛正3年)当時の佐竹家当主佐竹義人(義憲)が夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建した。1590年(天 正18年)、水戸霊松山(水戸市宮町、現在の水戸東照宮所在地)へ移転。1602年(慶長7年)、佐竹氏の転封に伴い、出羽国秋田郡楢山村の楢山(現在の 金照寺..

  • 戦後パチンコ店が何軒も那珂市額田にあった。額田十文字近辺に3軒、北郷新道に一軒とあったのである。当時、在日朝鮮人の人たちが経営していた。ここで、足利時代から江戸期を振り返り、朝鮮との交易について、述べてみたい。額田城が出来た時代、対馬に宗氏がいて交易が認められ、大名たちも朝鮮を通じ、中国の者が手に入った。勘合貿易に準じた交易があった。14世紀末の朝鮮半島では、李成桂(り せいけい、イ・ソンゲ)が高..

  • 那珂市観光かるたの応募が数日の間に水戸から、戸崎からと続々と届いている。かるたの内容は次のとおりである。お静さんと呼ばれる社に 歴史あり 友好の糸をたぐれば 戸崎城静織の里に今年も桜花萬姫の幸せ願う親心常陸野の古代を織りなす静織の里八重の桜 咲くころはうららうららの静の峰四季折々の色と香りを楽しませる茨城県植物園正門 楼門 唐門の参道奥に常福寺そびえ立つ一乗院の毘沙門天花の寺 一乗、弘願 文殊院南..

  • 茨城の観光地化を目指す額田城跡保存会『武藤博光会長』は那珂市ボランティアの観光かるたの読札募集に賛同し、後援をしていくことが決まった。後援団体は那珂市観光協会についで2団体。読札募集については茨城新聞掲載もあって、水戸市、大子町からの人たちから問い合わせがあった。那珂市ボランティアガイド事務局に届いている読札かるたは次の通り。 四季に咲く花が彩る県植物園 二十歳にてその法を知り、根本正の偉業を知る..

  • 棚倉街道は2通りある。江戸時代から棚倉街道は青柳渡しと枝川渡しを渡る街道である。なぜかと言うと枝川のほうが海への回漕が便利で荷物を運べたからである。塙の徳川将軍家の天領や水戸も副将軍家で江戸住まいであり大量の食物や木材は那珂川より海で江戸へ入った。青柳渡しは上町道といい、水戸城から西へ向かい、那珂川を青柳に渡り、五台、菅谷宿を通り、杉をとおり高岡、坂下。枝川渡しは下町道で水戸城からすぐに那珂川をわ..

  • 1591年に額田城を陥落する佐竹義宣であるが同年33館の領主の謀殺等を経て、常陸国統一を果たし、水戸に入城。街づくりや水戸八幡宮の建設にとりかかった。梅香町は家臣の岡本梅香斎の名を取って今でも梅香町と言われている。『茨城新聞社 奥七郡からの出発 富山章一氏』から引用。

  • 1月16日において茨城新聞に那珂市観光かるたの読札募集の記事が掲載されている。観光ボランティア会長小田部一彦宅が事務局で申し込み先は電話番号090−2412−8305(後援 那珂市観光協会)5−7−5調でも自由ですが22字を限度とする。観光かるたの一人5首を基準としての募集である。白鳥が今年はまだかと古徳沼壺焼の焦げるにおいの 囲炉裏端金色の観音輝きて甍もまぶし びるしゃな寺有が池 コウホネの花 ..

  • 文化財愛護協会の民俗部会では2月に那珂市中央公民館にて民俗部会としての発表会を行う。昨年7月に開催された額田まつりの前に実際に額田の屋台山車を見学しようとの意図のもと、6月29日に観光ボランティア那珂の説明を聞きながらの内容把握を目的としたもので歴史的遺産の逸話等を交えての発表ならびに7月25日の額田まつりの内容と事前に開いた額田まつり今昔物語展の内容が茨城新聞のDVDを用いての発表となるという。..

  • 水戸から常陸太田の黄門ウォークが実際の歩いた道を歩いていないのでは疑問を投げかけられましたので、額田近辺についてご説明いたします。確かに江戸時代は南側に有が池を西側に迂回し、高岡から鱗勝院の西側を通り、額田城跡の西側の外堀に沿って北上し、八幡社の東側をとおって舟渡に向かい船にて河合岸に渡る道筋が正しいといえましょう。黄門ウォークは明治以降の車道を通り、阿弥陀寺に上がってきますがトイレ等が途中になく..

  • 鳥獣保護法なんて考えたことはなかったがこの頃、額田地区においてもイノシシやたぬきが出没してきた。害がなければ共存していくのが望ましいがそうも言ってられない現実がある。そして、我が家にもタヌキの子供が出没してきた。害獣だと言うが子ダヌキは可愛い。ついついリンゴなど餌をやってしまう。先日の那珂市広報においても高速道路以北のイノシシ狩りを実施するようなことが掲載された。野山に食糧があった時代は山のみで対..

  • 大成学園の創始者を前述したので、常磐学園の創始者も紹介しよう。諸澤みよ    諸澤みよ 学校法人常磐大学の創立者である諸澤みよ(旧姓小田木)は,明治二十年(1887)に,東茨城郡飯富村(水戸市)で生まれた。     みよは明治四十二年(1909),水戸市馬口労町(水戸市末広町)に小田木裁縫伝習所を開設しました。ここは,近くの民家を借り受け..

  • 額田北郷の神奈川の先輩から日本で初めての保母って?電話がかかった。即座に諸沢みよと答えたが豊田ふゆと答えるのが正解だった。常磐と大成学園の創始者をごっちゃになっていたんだ。豊田ふゆは豊田天功の息子の嫁として豊田家に入った。水戸藩郡奉行・桑原信毅の次女として、水戸に生まれた。幼少時から学問を好み、穴沢流薙刀術の伝授も受けた。文久2年(1862年)、豊田天功の子・小太郎(豊田香窓)と結婚した。しかし、..

  • つつがなく新年をお迎えのことと存じます一年一年の積み重ねが歴史です。悠久の額田に居住していることを誇りに思いましょう。額田城は永久に不滅です。皆さまのご健康とご多幸をお祈りいたします。