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2016年02月03日(水)

室町時代から江戸時代の朝鮮との交易

戦後パチンコ店が何軒も那珂市額田にあった。額田十文字近辺に3軒、北郷新道に一軒とあったのである。当時、在日朝鮮人の人たちが経営していた。
ここで、足利時代から江戸期を振り返り、朝鮮との交易について、述べてみたい。額田城が出来た時代、対馬に宗氏がいて交易が認められ、大名たちも朝鮮を通じ、中国の者が手に入った。勘合貿易に準じた交易があった。
14世紀末の朝鮮半島では、李成桂(り せいけい、イ・ソンゲ)が高麗(こうらい、コリョ)をたおし、朝鮮(ちょうせん)という国をたてた。 朝鮮も明への朝貢貿易を行った。また朝鮮も日本に倭寇の取り締まりを求め、日本とは対等な国交をむすび、朝鮮と日本との貿易も行われた。勘合に似た仕組みの合い札が、朝鮮との貿易でも使われた。

朝鮮では、公用語が漢文だったが、あらたに独自の文字のハングルが民衆のために作られ、1446年に朝鮮王によって公布された。しかし、まだ民衆には、あまりハングルは普及しなかった。現在の韓国や北朝鮮ではハングルが文字に使われている。ハングルは表音文字である。また、朱子学が広まった。このころに日本では、まだ綿があまり栽培されていなかったので、朝鮮からの輸出品で綿布などが多く輸出された。 のちに日本でも綿の栽培がされるようになった。 朝鮮からの輸出は、綿の他には経典などが日本へ輸出された。朝鮮の印刷技術では、金属活字が使われていたという。

朝鮮との貿易は、のちに対馬の宗(そう)氏だけが朝鮮から貿易をみとめられ、貿易の独占権を与えられ、宗氏が朝鮮との貿易を独占するようになった。
対馬藩はいまの長崎県にあたります。
豊臣秀吉の朝鮮出兵により、日本と朝鮮の関係は冷え切っていましたが、対馬藩の宗氏の努力によって国交を回復することに成功しました。

江戸時代の貿易のシステムは、室町時代と同じ朱印船貿易になります。
朝鮮からは、幕府の将軍がかわるごとに通信使と呼ばれる使者が派遣されました。

1392年に成立した李氏朝鮮は、1368年に成立した明とは異なり、朝貢船以外の商船入港を禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限を加えなかった。このため、日本の大名、商人らが朝鮮に通交する者が急増したが、彼らの中には交易に不都合があると倭寇に変貌するような者もいたので、朝鮮政府は1407年頃国防上の見地から興利倭船の入港地を慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道昌原市)に限定した。1410年、日本の使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。

当時朝鮮貿易に大きな利権を持っていた対馬の早田左衛門太郎は1426年、慶尚左右道各地で任意に交易できるようにして欲しいと朝鮮政府に訴えたが、拒否され、代償として蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)が入港地に追加された。

これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数の日本人が住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。

朝鮮半島に居住し帰化しない日本人を朝鮮では恒居倭と呼び、首領を頭とする自治が行われた。恒居倭の中には倭館の関限を超えて居住する、漁業や農業に従事する、密貿易を行う、倭寇化する者もいた。当初朝鮮政府は日本人には徴税権・検断権も行使出来なかった為、彼等を統制下に置こうと圧力をかける。1510年、交易上のトラブルもあり朝鮮側に不満を募らせた日本人は、対馬からの援軍も加えて大規模な反乱を起こす。この三浦の乱は結局、朝鮮側の武力によって鎮圧され、三浦倭館は閉鎖されたが、後に一部再開された。
三浦倭館
富山浦倭館

後には釜山浦倭館とも呼ばれた。現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱(トンネ)県城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にあった。1494年には450人程度の日本人が居住していた。1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開された。釜山浦倭館は1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続し、三浦倭館の中では最も長く日本人が住んでいた。
乃而浦倭館

薺浦倭館ともいい、現在の慶尚南道昌原市鎮海区薺徳洞槐井里にあった。当時は北方にある熊川県が管轄していた。三浦のうち最も大きなもので、1494年の在住日本人人口は2,500人に達した。日本人側は朝鮮との居留人数に関する約定を破ったため朝鮮側が送還するなどしたが、いつのまにかまた増えるという状態であった。1510年には朝鮮側が制裁として貿易統制を加えたことによって三浦の乱が発生。一旦閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって再開され、1544年の倭寇事件で再び閉鎖され、復活しなかった。
塩浦倭館

現在の蔚山広域市中区塩浦洞に所在した。蔚山旧市街から湾を隔てた南岸にあり、現代自動車工場敷地となっている。当時は蔚山旧市街に置かれた蔚山郡庁と慶尚左道兵馬節度使の管轄下にあった。1426年に開港され、1494年には約150人の日本人が住み、1510年の三浦の乱によって閉鎖され、二度と復活しなかった。三浦倭館の中では最も小規模で、存続期間も短かった。
ソウルの倭館

李氏朝鮮の都「漢城」(現在のソウル)にも通交を求めて来る日本の大名や商人がいた。ここには彼らを接待するための施設「東平館」が存在し、通称「倭館」と称された。これは純然たる接待施設で日本人が常に在住する居留地ではない。この倭館があった場所は「倭館洞」としてソウルの地名となり20世紀初めまで続いた。日本統治時代には大和(やまと)町と改称された。現在はソウル特別市中区忠武路となっている。
近世倭館

1592年に始まる文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶し、戦争直後対馬藩が送った貿易再開を求める使者が帰ってこないことが多かった。しかし朝鮮人捕虜を送還するなど対馬藩の必死の努力によって、1607年最初の朝鮮通信使が来日し、国交回復が決まった。対馬藩は江戸幕府から朝鮮外交担当を命じられ、釜山に新設された倭館における朝鮮交易の独占権も付与された。1609年に締結された己酉約条によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた。
豆毛浦倭館

1607年、現在の釜山広域市東区佐川洞付近に新設された倭館で、約1万坪の面積があった。古倭館ともいう。内部には宴享庁(使者の応接所)を中心に館主家、客館、東向寺、日本側の番所、酒屋、その他日本家屋が対馬藩によって建築された。1647年には対馬藩が任命した館主が常駐するようになったが、交易の発展にともない豆毛浦倭館は手狭になり、交通も不便であったので、朝鮮側に再三移転要求を行った。1673年移転が認められ、1678年に草梁倭館へ引越しが行われた。
草梁倭館

1678年、現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、10万坪もの面積があった。同時代の長崎の出島は約4000坪であったから、その25倍に相当する。新倭館とも呼ばれた。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋、開市大庁(交易場)、裁判庁、浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。

倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞(通訳官)などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。当時の朝鮮は伝統中国医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来る者が藩医、町医を問わず多かった。また1727年に雨森芳洲が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。さらに対馬から交易船が到着すれば、倭館滞在者が急増したことは言うまでもない。倭館の安永年の普請に関わったのは、早田万右衛門などである。

なお、1702年に完成した江戸幕府作成の「元禄日本図」には朝鮮半島の南西端に“草梁項”という地名と“和館”と書かれた建物及び対馬藩との航路が記述されている[1]。
倭館における交易

中世の倭館交易では日本側は銅、硫黄、金を輸出したが、南方物産である赤色染料の蘇木、胡椒などのスパイス類も琉球経由などで朝鮮に転売した。朝鮮側輸出品は木綿や綿が中心であった。中世には木綿の本格的栽培はまだ日本では始まっておらず、江戸時代になってようやく木綿の輸入を必要としなくなった。また正式の通交使節との公貿易では、大蔵経など朝鮮の書籍も日本に輸出された。

近世の倭館交易では日本側は銀、硫黄、金、その他南方物産を朝鮮側に輸出した。朝鮮側は朝鮮人参、トラ皮などの朝鮮産品も輸出したが、江戸時代前期の最大の輸出品は生糸、絹織物などの中国産品であった。当時、日本の絹は品質が劣り、高級衣料として中国絹が好まれたためである。朝鮮はこれら中国産品を、朝貢貿易や国境貿易で入手することができたが、日本は明への入港を拒絶されていたため中国密貿易船の来航を待つしかなかった。対馬藩はこの中国産品の中継貿易によって巨額の利益を上げ、藩の禄高は実質10万石以上とされた。

しかし18世紀になって日本でも絹生産の技術が向上すると、中国産品の輸入が減少し、釜山交易に打撃を与えた。また朝鮮側が厳禁していた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、日本国内でも朝鮮人参栽培に成功した。一方、日本国内の銀産出量が激減したため、銀輸出が禁止され、銅や金が主要輸出品目に変わった。このため、18世紀以降、倭館交易は衰退するが、断絶することはなかった。
倭館の終焉

釜山倭館に来航した対馬藩家老は1867年、明治新政府の成立を大院君政権に通告したが、朝鮮側は日本の新しい主権者が「皇上」と名乗っていることを理由に国書の受け取りを拒否した。1871年、日本で廃藩置県が実施されると、江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を外務省が接収。1872年、外務丞・花房義質が釜山に来航し、草梁倭館を接収して大日本公館と改称した。これに対して大院君政権が強硬に退去を要求したため、日朝間の外交問題に発展し、日本で征韓論が台頭する一因となった。その後、1875年の江華島事件を経て、翌年日朝修好条規が締結され、日本外交使節はソウルに駐在となった。ここにおいて釜山の倭館は200年の歴史を閉じることになった。
現存の倭館地名

大韓民国慶尚北道漆谷(チルゴク)郡に倭館(英語版)(ウェグァン)邑が現存し、京釜線の駅名と京釜高速道路のインターチェンジ名、漆谷郡庁所在地にもなっているが、これは文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積所であったために付けられた地名である。なお、漆谷邑は1981年に大邱市が直轄市に昇格した時に編入されて現存しない。


   
    15世紀、朝鮮半島南部に三浦と呼ばれる日本人居留地が存在し、宗氏を始めとする西日本諸勢力は三浦を拠点に朝鮮に通交をしていた。朝鮮にとってこうした通交は多大な負担であり、次第に制限を加えていった。それに対し宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく、両者の間に確執が生まれた。また三浦居住の恒居倭の増加に伴い様々な問題が生じ、朝鮮は恒居倭に対し強硬な姿勢で臨むようになった。こうした中で蓄積された日本人の不満は、1510年に三浦の乱という形で爆発するが、朝鮮に鎮圧された。その結果、三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになり、宗氏は偽使の派遣や、通交権の対馬集中といった活路を模索することになった。
乱の背景

中世東アジアにおいて前期倭寇と呼ばれる海上勢力が猛威を奮い、朝鮮は討伐・懐柔・室町幕府への鎮圧要請など、様々な対応を余儀なくされていた。朝鮮は農本主義を国是としており、本来なら、国内で産出することの無い必要最小限の物資の入手を除けば、外国との交易を必要としていなかった。しかし倭寇沈静化を図り、通交権をもって西日本諸勢力から倭寇禁圧の協力を取りつけ、また倭寇自体を平和的通交者へと懐柔していった。特に対馬は倭寇の一大拠点と目されており、対馬守護であった宗氏に対してもこうした協力が要請され、宗氏もそれに応えて日朝交易に積極的に参加をしていった。

李氏朝鮮建国当初は、入港場に制限はなく、通交者は随意の浦々に入港することが可能であった。しかし各地の防備の状況が倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、1407年、朝鮮は興利倭船(米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)に制限し、1410年には使送船(使節による通交船)についても同様の措置が取られた[1]。1426年、対馬の有力者早田氏が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し、拒絶する代償として塩浦(蔚山広域市)を入港場に追加した。これら釜山浦・薺浦・塩浦を総称して三浦と呼ぶ。(浦は港の意味)
交易の制限

中世日朝交易は、通交使節による進上と回賜、朝鮮国による公貿易、日朝双方の商人による私貿易の三つの形態が組み合わさったものであった[1]。朝鮮にとって公貿易は利益を産み出すものではなく国庫を圧迫する要因となっていた。また朝鮮国内における通交者の滞在費・交易品の輸送も朝鮮側が担っており、こうした負担も無視出来ないものであった[# 1]。日本経済の発達に伴い交易量が増大した結果、朝鮮はこうした負担に耐えられなくなり、交易の制限を図るようになった。それに対し、対馬は山がちで耕地が少なく土地を通じた領国支配は困難であったため、宗氏は通交権益の知行化を通じて有力庶家の掌握や地侍の被官化を行い、領国支配を推し進めていた(宗氏領国)[2]。また主家である少弐氏の敗勢により九州北部の所領を喪失し、家臣に代替として通交権益を宛がう必要もあり、通交の拡大を望みこそすれ制限は受け入れられるものではなかった。そのため、宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになった。

1443年の嘉吉条約により、朝鮮は対馬から通交する歳遣船(毎年派遣される使送船)の上限を年間50隻に定めた。それに対し宗氏は特送船(緊急の用事で送る使送船)を歳遣船の定数外とし、島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)とは別に有力庶家名義の歳遣船を定約し、また島主歳遣船の上限を引き上げるよう要求したが、これは朝鮮から拒絶された。さらに対馬島外勢力や実在しない勢力名を騙った新たな通交者の偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。

当時の日朝貿易における日本側の輸出品は胡椒・丹木・朱紅・銅・金等であり、朝鮮側の輸出品は綿布であった。朝鮮は綿布の国庫備蓄が底をつくことを恐れ、1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、1494年には金・朱紅の公貿易禁止、1498年には銅の公貿易も禁止した。それに対し宗氏は、それまでは外交交渉のために使用していた特送船を使って、銅の輸出を図った。1500年に朝鮮に訪れた宗氏の使者は、11万5千斤の銅を持ち込むが、朝鮮は3分の1を買い取り、残りは持ち帰らせた。2年後、再度訪れた使者は残余の買い取りを迫ったが、朝鮮は綿布の交換レートを引き上げた上での3分の1の買い取りを提示し、交渉は物別れに終わった。翌々年、三度交渉するが不調に終わった。資料が残っておらず結果は不明ながら、1508年にもまた同様の交渉が行われている。こうした大量の銅は、宗氏が新たに入手したものではなく、朝鮮が交易の制限を強化していく中、対馬・博多において大量に過剰在庫となって溜まっていたものと考えられる[2]。こうした交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、宗氏は不満を募らせ、三浦の乱の一因となった[1][2]。
恒居倭の増加

朝鮮の当初の目論見では、三浦は入港場にすぎず、日本人の定住は想定していなかった。しかし対馬は土地が痩せていて、島内で過剰人口を吸収できず、交易従事者のみならず三浦に定住する日本人(恒居倭)が出現した。彼らは倭館の関限を超えて居住し、田地を購入して、耕作や朝鮮半島沿岸での漁業、密貿易など様々な活動を行った。朝鮮は、恒居倭の倭寇化を恐れ、検断権(警察・司法権)・徴税権といった行政権を行使できず、日本人有力者による自治に任せるままであった[# 2][# 3][# 4]。朝鮮は恒居倭の増加を危惧し、宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請した。宗氏は当初恒居倭を掌握しておらず、自身の支配下にある対馬への送還に熱心であった[# 3]。しかし1436年の送還により宗氏の支配下にない者達が一掃され、以降三浦は宗氏の派遣する三浦代官の支配するところとなった。その結果、宗氏は送還に消極的になり、三浦人口は1436年の206人から1466年には1650余人、1494年には3105人まで急増することになった[1]。

恒居倭の増加に伴い、恒居倭による漁場の占拠[# 5]、恒居倭の倭寇化[3]、密貿易の恒常化及び恒居倭と朝鮮人の癒着[# 6]、三浦周辺朝鮮人の納税回避[# 7]、朝鮮人水賊の活発化[# 8]など、様々な問題が噴出する。朝鮮王朝は三浦の状況を、「譬えるなら、腫瘍が腹に出来、すぐにでも崩れそうな状況」[4]と危機感を募らせていった。

15世紀末、こうした事態に耐えかねた朝鮮国は、恒居倭に対して強硬姿勢に転じた。辺将による納税の論告を行い、三浦代官の協力を得た上ながら海賊行為を働いた者を捕らえて処刑するなど、それまで恒居倭に対し行えなかった検断権・徴税権行使を試みるようになった。また三浦の辺将に中央高官を任命し、厳重な取締りを行わせた。こうした中、無実の日本人が海賊と間違われて斬られる、といった事件が起こって日本人の不満は爆発した。
乱の展開

1510年。事の発端は釣りに向かう薺浦の恒居倭人4名を、海賊と誤認した朝鮮役人が斬殺した事にあった。日ごろから折り合いの悪かった三浦の恒居倭人は、この事態に憤慨し一斉に武器を持って立ち上がった。

さらに、4月4日、対馬から宗盛順[# 9]率いる援軍を加えた恒居倭は、約4500の兵力をもって三浦の乱を起こした。これは宗氏主導で計画的に起こされたものと考えられている[# 10]。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった交易の制限、恒居倭に対する検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった。

倭軍は、釜山浦・薺浦の僉使営を陥落させ、釜山浦では辺将を討取り、薺浦では生け捕りにした。さらに釜山浦から東?城、薺浦から熊川城へ攻め進むが反撃に会い攻撃は頓挫した。4月9日頃、倭軍は兵の一部を対馬へ撤退させた。盛親は残りを薺浦へ集結させて自ら講和交渉に臨もうとしたが、朝鮮は講和に応じず、4月19日、朝鮮軍は薺浦へ攻撃をかけ、薺浦は陥落。倭軍は対馬へ撤退した。6月末、倭軍は再度来攻したが、撃退された。
乱の顛末

この事件により日朝の国交は断絶状態となった。これは宗氏以外の全ての受職人(朝鮮から官位を貰っている者)・受図書人(通交許可を受けている者)に対しても同様であった。しかしながら、交易で生計を立てている対馬と、胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方は、折り合いを付ける必要に迫られ、1512年、壬申約条により和解が成立した。

これにより交易は再開され倭館も再び開かれた。しかし、入港地は薺浦のみに制限され、歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受けるなど、通交は以前より制限されたものになった。また、暴動対策のため備辺司が設置された。その後、薺浦一港だけでは港受入れは難しいとの理由から、釜山浦も再び開かれるが、1544年に蛇梁倭変が起こり、再び国交は断絶した。1547年の丁未約条を以って交易が再開されるが、入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていくことになる。

宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図ることになる。

15世紀、朝鮮半島南部に三浦と呼ばれる日本人居留地が存在し、宗氏を始めとする西日本諸勢力は三浦を拠点に朝鮮に通交をしていた。朝鮮にとってこうした通交は多大な負担であり、次第に制限を加えていった。それに対し宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく、両者の間に確執が生まれた。また三浦居住の恒居倭の増加に伴い様々な問題が生じ、朝鮮は恒居倭に対し強硬な姿勢で臨むようになった。こうした中で蓄積された日本人の不満は、1510年に三浦の乱という形で爆発するが、朝鮮に鎮圧された。その結果、三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになり、宗氏は偽使の派遣や、通交権の対馬集中といった活路を模索することになった。
乱の背景

中世東アジアにおいて前期倭寇と呼ばれる海上勢力が猛威を奮い、朝鮮は討伐・懐柔・室町幕府への鎮圧要請など、様々な対応を余儀なくされていた。朝鮮は農本主義を国是としており、本来なら、国内で産出することの無い必要最小限の物資の入手を除けば、外国との交易を必要としていなかった。しかし倭寇沈静化を図り、通交権をもって西日本諸勢力から倭寇禁圧の協力を取りつけ、また倭寇自体を平和的通交者へと懐柔していった。特に対馬は倭寇の一大拠点と目されており、対馬守護であった宗氏に対してもこうした協力が要請され、宗氏もそれに応えて日朝交易に積極的に参加をしていった。

李氏朝鮮建国当初は、入港場に制限はなく、通交者は随意の浦々に入港することが可能であった。しかし各地の防備の状況が倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、1407年、朝鮮は興利倭船(米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)に制限し、1410年には使送船(使節による通交船)についても同様の措置が取られた[1]。1426年、対馬の有力者早田氏が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し、拒絶する代償として塩浦(蔚山広域市)を入港場に追加した。これら釜山浦・薺浦・塩浦を総称して三浦と呼ぶ。(浦は港の意味)
交易の制限

中世日朝交易は、通交使節による進上と回賜、朝鮮国による公貿易、日朝双方の商人による私貿易の三つの形態が組み合わさったものであった[1]。朝鮮にとって公貿易は利益を産み出すものではなく国庫を圧迫する要因となっていた。また朝鮮国内における通交者の滞在費・交易品の輸送も朝鮮側が担っており、こうした負担も無視出来ないものであった[# 1]。日本経済の発達に伴い交易量が増大した結果、朝鮮はこうした負担に耐えられなくなり、交易の制限を図るようになった。それに対し、対馬は山がちで耕地が少なく土地を通じた領国支配は困難であったため、宗氏は通交権益の知行化を通じて有力庶家の掌握や地侍の被官化を行い、領国支配を推し進めていた(宗氏領国)[2]。また主家である少弐氏の敗勢により九州北部の所領を喪失し、家臣に代替として通交権益を宛がう必要もあり、通交の拡大を望みこそすれ制限は受け入れられるものではなかった。そのため、宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになった。

1443年の嘉吉条約により、朝鮮は対馬から通交する歳遣船(毎年派遣される使送船)の上限を年間50隻に定めた。それに対し宗氏は特送船(緊急の用事で送る使送船)を歳遣船の定数外とし、島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)とは別に有力庶家名義の歳遣船を定約し、また島主歳遣船の上限を引き上げるよう要求したが、これは朝鮮から拒絶された。さらに対馬島外勢力や実在しない勢力名を騙った新たな通交者の偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。

当時の日朝貿易における日本側の輸出品は胡椒・丹木・朱紅・銅・金等であり、朝鮮側の輸出品は綿布であった。朝鮮は綿布の国庫備蓄が底をつくことを恐れ、1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、1494年には金・朱紅の公貿易禁止、1498年には銅の公貿易も禁止した。それに対し宗氏は、それまでは外交交渉のために使用していた特送船を使って、銅の輸出を図った。1500年に朝鮮に訪れた宗氏の使者は、11万5千斤の銅を持ち込むが、朝鮮は3分の1を買い取り、残りは持ち帰らせた。2年後、再度訪れた使者は残余の買い取りを迫ったが、朝鮮は綿布の交換レートを引き上げた上での3分の1の買い取りを提示し、交渉は物別れに終わった。翌々年、三度交渉するが不調に終わった。資料が残っておらず結果は不明ながら、1508年にもまた同様の交渉が行われている。こうした大量の銅は、宗氏が新たに入手したものではなく、朝鮮が交易の制限を強化していく中、対馬・博多において大量に過剰在庫となって溜まっていたものと考えられる[2]。こうした交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、宗氏は不満を募らせ、三浦の乱の一因となった[1][2]。
恒居倭の増加

朝鮮の当初の目論見では、三浦は入港場にすぎず、日本人の定住は想定していなかった。しかし対馬は土地が痩せていて、島内で過剰人口を吸収できず、交易従事者のみならず三浦に定住する日本人(恒居倭)が出現した。彼らは倭館の関限を超えて居住し、田地を購入して、耕作や朝鮮半島沿岸での漁業、密貿易など様々な活動を行った。朝鮮は、恒居倭の倭寇化を恐れ、検断権(警察・司法権)・徴税権といった行政権を行使できず、日本人有力者による自治に任せるままであった[# 2][# 3][# 4]。朝鮮は恒居倭の増加を危惧し、宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請した。宗氏は当初恒居倭を掌握しておらず、自身の支配下にある対馬への送還に熱心であった[# 3]。しかし1436年の送還により宗氏の支配下にない者達が一掃され、以降三浦は宗氏の派遣する三浦代官の支配するところとなった。その結果、宗氏は送還に消極的になり、三浦人口は1436年の206人から1466年には1650余人、1494年には3105人まで急増することになった[1]。

恒居倭の増加に伴い、恒居倭による漁場の占拠[# 5]、恒居倭の倭寇化[3]、密貿易の恒常化及び恒居倭と朝鮮人の癒着[# 6]、三浦周辺朝鮮人の納税回避[# 7]、朝鮮人水賊の活発化[# 8]など、様々な問題が噴出する。朝鮮王朝は三浦の状況を、「譬えるなら、腫瘍が腹に出来、すぐにでも崩れそうな状況」[4]と危機感を募らせていった。

15世紀末、こうした事態に耐えかねた朝鮮国は、恒居倭に対して強硬姿勢に転じた。辺将による納税の論告を行い、三浦代官の協力を得た上ながら海賊行為を働いた者を捕らえて処刑するなど、それまで恒居倭に対し行えなかった検断権・徴税権行使を試みるようになった。また三浦の辺将に中央高官を任命し、厳重な取締りを行わせた。こうした中、無実の日本人が海賊と間違われて斬られる、といった事件が起こって日本人の不満は爆発した。
乱の展開

1510年。事の発端は釣りに向かう薺浦の恒居倭人4名を、海賊と誤認した朝鮮役人が斬殺した事にあった。日ごろから折り合いの悪かった三浦の恒居倭人は、この事態に憤慨し一斉に武器を持って立ち上がった。

さらに、4月4日、対馬から宗盛順[# 9]率いる援軍を加えた恒居倭は、約4500の兵力をもって三浦の乱を起こした。これは宗氏主導で計画的に起こされたものと考えられている[# 10]。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった交易の制限、恒居倭に対する検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった。

倭軍は、釜山浦・薺浦の僉使営を陥落させ、釜山浦では辺将を討取り、薺浦では生け捕りにした。さらに釜山浦から東?城、薺浦から熊川城へ攻め進むが反撃に会い攻撃は頓挫した。4月9日頃、倭軍は兵の一部を対馬へ撤退させた。盛親は残りを薺浦へ集結させて自ら講和交渉に臨もうとしたが、朝鮮は講和に応じず、4月19日、朝鮮軍は薺浦へ攻撃をかけ、薺浦は陥落。倭軍は対馬へ撤退した。6月末、倭軍は再度来攻したが、撃退された。
乱の顛末

この事件により日朝の国交は断絶状態となった。これは宗氏以外の全ての受職人(朝鮮から官位を貰っている者)・受図書人(通交許可を受けている者)に対しても同様であった。しかしながら、交易で生計を立てている対馬と、胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方は、折り合いを付ける必要に迫られ、1512年、壬申約条により和解が成立した。

これにより交易は再開され倭館も再び開かれた。しかし、入港地は薺浦のみに制限され、歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受けるなど、通交は以前より制限されたものになった。また、暴動対策のため備辺司が設置された。その後、薺浦一港だけでは港受入れは難しいとの理由から、釜山浦も再び開かれるが、1544年に蛇梁倭変が起こり、再び国交は断絶した。1547年の丁未約条を以って交易が再開されるが、入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていくことになる。

宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図ることになる。