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額田2万石(額田藩)

松平 頼元

寛文2年(1662年)初代藩主頼房の4男刑部大輔松平頼元と5男松平頼隆の知行地ができた。
1664年手前取り付けになり、頼元が額田、頼隆が保内が知行地であった。正確には額田村、米崎村、高岡村の3村であったが額田村と称した。
頼元はこのほかに那珂郡の石神外宿、久慈郡の磯部、茨城郡の平戸、秋葉、押切、下野村、それに多賀郡の伊師、伊師浜、伊師本郷、友部、高原、砂沢、折笠、田尻、滑川の諸村であった。(土芥寇□記)には頼元について「居所常州糠田自江戸三十四里。本知二万石。ただし、新田を以って、配分の知なり。新地開運上課役掛かり物等、都合及三万石、米能く生ず。払い中也。年貢所納、坪し5つ23分。家中へ大概地形を渡す。新参者には蔵米を以って4つ成りにして与ふ」と記されているので額田に徴税家臣の詰役所などが置かれたのかもしれない。
 1635年江戸幕府は武家諸法度を発しその中で参勤交代の制を大名に課しますが額田藩は水戸藩連枝として免じられています。






額田神社の奥にある淡島神社は松平頼元の寄進による。
頼元は元禄6年に没し、嫡子大学頭頼貞が相続した。松平頼貞は元禄13年幕府から、田村郡の守山、常陸の国、茨城、行方、鹿島3郡で2万石の領地をうけ、守山藩を創設し、水戸藩から受けていたものは宗家に返した。【那珂町史】
和歌を好み、歌集「粛山集」を著している。また、一尾伊織に師事して茶道を学んだ。
松平 頼元_2