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額田悠久の歴史 - 古代

旧石器時代の額田(地勢・古墳・化石)

今から1万年前以前の時代を先土器時代、あるいは旧石器時代といいます。およそ2万年前の旧石器時代にあたり、大陸は最終氷期と呼ばれ、巨大な氷河に覆われていました。
氷河のため海水が減り、海面は今より100メートル以上下がっていました。日本列島にあたる地域は大陸と陸続きで、対馬海峡は今より狭く、陸続きだったという説もあります。
平均気温は現在より7度以上低く、日本は今のシベリアと同じ様な気温だったと考えられています。大陸と陸続きの時代を更新世といいます。この時代に北からマンモスやヘラジカが南からナウマンゾウやオオツノジカがやってきました。槍の先につけた尖頭器や弓矢の先に石族がつけられ黒曜石で作られました。人骨も発見され、沖縄から港川人、兵庫から明石人、静岡から浜北人が発見されています。この時代の宗教はアニミズムといってあらゆるものに魂が宿ると信じられていました。那珂市では額田台地を中心にして、額田大宮遺跡、新地遺跡、富士山遺跡、岸桂寺遺跡、森戸遺跡などがあり、特に新地遺跡、額田大宮遺跡、富士山遺跡は細石刃文化で当時、東京大学教授佐藤達夫の注目するところとなる。それは、シベリアにおけるセルト型石核の好例として重視され、シベリア文化との繋がりが強いとされ、学会の常識となった。この石器時代が終わると土器の文化がスタートし、紀元前8千年から250年にかけて、縄文文化が栄えるが那珂台地では東北地方、北陸地方、南関東地方のさまざまの要素が相互に影響しあい地域独自の文化を形成する。新潟県の姫川産のヒスイが那珂台地で発見されるのも特筆すべきものである。弥生時代は水稲栽培と金属器の使用が大きな特徴とする。弥生初頭の海後遺跡が重要な遺跡で水稲栽培は耕作を意味し、定住を意味した。終末期の十王台期となると久慈川流域における弥生遺跡の密集度からして久慈川連合政権の存在が想定できるというのも一つの考えか。4世紀から、7世紀後半までを古墳時代と呼ぶ。古墳時代の初頭に土師器の展開がある。額田式土器群である。額田式土器はこの地で成立したものでなく、北陸系、東海系の弥生式の伝統を踏襲するもので明らかに外来の土器であるが那珂市ほど多く出土している地区もなく伊達遺跡は古墳文化成立期を考えるうえで欠かせない代表的遺跡である。那珂市の古墳の内部主体として注目されるのは舟形石棺を主体とする額田古墳群である。県内唯一の可能性があり、大きな政権を存在を想起させる。森戸遺跡から県内唯一の石製模造品の製作遺跡で5世紀から6世紀初頭にかけての祭祀に関連した遺跡であり、石材は常陸太田町屋から切り出された。この石製品は森戸遺跡を介して周辺地区に供給されたところも大きな背景の存在を想起できる。【那珂町史参考】
参考までに日本史から群馬県から岩宿遺跡が発見され石器が発見された地層を関東ローム層と言い額田でのその地層は1メートルほど下に赤い土がでてきますね。
旧石器時代の額田(地勢・古墳・化石)

悠久の額田の語源となる額田部氏とは

額田部氏は茨城の太古の昔どうだったか。新編常陸国史によると久慈郡に額田村あり【今那珂郡に属す】湯坐連と同祖なり、茲額田部の居る処なり、天津彦根命は茨城国造の祖なり、湯坐連と同祖なり、姓氏録には天津彦根命は額田部湯坐連の後裔とある。家系本末抄には額田村の項目で額田部連 茨城国造にして府を本村に建て国政を執るとあり。【佐川礼勝著 茨城キリスト教大学元教授 志田准一 解説】大和王権では推古天皇の幼名額田部皇女命や額田王の額田部氏に繋がる。