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額田悠久の歴史 - 鎌倉・室町時代

佐竹の台頭が常陸史を大きく変える(佐竹義直:額田氏)

佐竹の台頭が常陸史を大きく変える(佐竹義直:額田氏)
八幡太郎義家の奥州征討の後、源義光の常陸平氏と源氏との融合を経て、その孫昌義に至り佐竹の台頭は大きく常陸史を変えた。常陸平氏と義光流源氏はその結びつきにより常陸国北部を支配した。義光の子義業は吉田清幹の子を娶り、昌義が生まれた。昌義は佐竹冠者と称し佐竹郷に土着、奥七郡を治めた。1180年には糠田も所領のなかにあった。南北朝の戦いは足利高氏【尊氏】につき、楠正家や那珂通辰を破り、関城や大宝城も落城に追い込む。北朝方では額田氏や山入氏が大いに足利氏の賞賛をうける。これが後に100年も続く山入戦争となっていく繋がりでもある。額田氏は佐竹義重系譜によると、次を常陸三郎義直と言い額田の祖なりとある。義直の子、正直が継ぎ義亮まで10代を続く。山入氏は佐竹貞義の7男で国安城に居住し、山入氏を名乗った。松平、高垣、小田野、小里、依上を領有した。現在の水府、里美、大子、金砂郷、美和の地域である。那珂氏は常陸太田で佐竹氏に追い詰められ一族自害するが那珂通泰のみが生き残り後に江戸氏をおこす。江戸氏は後に水戸城主馬場氏を攻め水戸城主となり、この地を治める。1590年に佐竹氏に攻められ落城する。額田城は別項目で述べる。鎌倉仏教の隆盛は額田にも大きな影響を与える。佐竹氏の曹洞宗や臨済宗を重んじた背景として、鱗勝禅院が額田にでき、浄土真宗の阿弥陀寺、弘照寺、時宗の常念寺、遮那寺、梅照院、観音寺、盛賢寺、安照院、常福院等の真言宗の寺があった。浄土宗は常福寺9世玉泉が額田に心岩寺をひらいた。1577年に額田に上宮寺があった。1583年には松原の現在地にうつっている。【那珂町史】

額田城

額田城項目参照

寺の隆盛

鎌倉時代となり、寺と続々と建立されていきます。1192年に文覚上人が真言宗両部山という神の部、仏の部の神仏混淆の両部山びる遮那寺を開基、1330年、沢小屋に(本郭付近)額田山放光寺が開基される。(曹洞宗鱗勝院の前身) 阿弥陀寺はは1217年親鸞の弟子定信が那珂西郡の大山に創建し、1391年に額田城主小野崎氏の招きで片庭に創建する。(浄土真宗)光照寺は1556年に大洗願入寺の末寺として開基、一時稲木に避難後天神小屋に建立された。小屋とは陣屋の事を言う。その他古寺の廃寺にある寺が続々と建立された。50を超えたという。これは額田城主の庇護のもと増加し、地域の領民の信仰と相まった。真言、一向宗、浄土宗、時宗、曹洞宗、臨済宗に修験者も加わり、学僧も含めて大人数となった。
浄土宗と浄土真宗
鎌倉時代に入ると天台宗の基盤の上に浄土衆や浄土真宗が広まる。戦乱の中にあって殺生に明け暮れる鎌倉武士や生活に苦しむ農民たちは念仏を唱えるだけで救いの境地に入れるとした法然の教え阿弥陀信仰を求めた。法然の死後、浄土真宗の宗祖親鸞は稲田、大山を拠点とし、阿弥陀寺、上宮寺を弟子ととも開き、24輩の高僧を育てていく。【那珂市教育委員会】

江戸氏の台頭と江戸小野崎氏

江戸氏は藤原秀郷流那珂氏の一族と伝えられている。那珂氏は、藤原秀郷五代の孫公道の子通直を祖とし、通直の子通資が那珂川北岸の那珂郷を領有したのに 始まるといわれる。平安末期のことというが、それを裏付ける傍証もなく確かな系図も伝わっていないことから、その真偽は不詳というしかない。鎌倉時代にな ると、幕府御家人に列したようで『吾妻鏡』などに那珂氏が散見するようになり、那珂川流域の地頭としてかなりの勢力を有していたことは間違いないようだ。
 鎌倉幕府が滅亡し南北朝内乱期になると、那珂氏は小田・大掾氏らと南朝方に属して活躍した。建武三年(1336)正月、新政府に反した尊氏が京都で敗れ て九州に逃れた頃、楠木正成の弟正家が常陸の瓜連城に入り、常陸は南朝の勢力が振るった。しかし、北朝方の高師冬の攻撃を受けて瓜連城は落城、那珂氏は族 滅の危機に瀕し、常陸は瓜連城を軍事拠点とする高師冬と北朝方の雄佐竹氏の勢力が振るうようになった。
 瓜連城が落城したとき、那珂通辰の子通泰のみが逃れえた。その後の経過は不明だが通泰は再起して北朝方に属し、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったという。
北朝方で功績があった通高は水戸の加倉井を尊氏を与えられるが戦死する。応永三十三年(1426)、水戸を支配した大掾満幹(馬場氏)は「青屋祭」を執行するため、一族をあげて府中に赴いた。これを好機とした江戸通房は、その留守を襲撃し水戸地方支配に成功したのであった。山入り氏の乱後、佐竹宗家は額田城に小野崎通業の孫、通重を入れ、額田氏を継がせた。小野崎2代目は江戸氏から養子を迎え、通栄彦三郎が城主となる。そののち照通まで小野崎氏は7代(6代は江戸氏)続き、1591年佐竹義宣に滅ぼされるまで7代170年間額田を治めることになる。血統的には江戸氏が水戸、額田を支配したことになる
写真 瓜連城跡。
江戸氏の台頭と江戸小野崎氏_2

鎌倉時代、室町の名字

日本の名字は平安時代の貴族から始まるが一般的には鎌倉時代の武士の台頭とともにでてくる。。日本の姓氏は約30万種類もあるそうで、(以下抜粋)そのうちの「6大姓」は,山,川、海、田、神官、武士の役職である。そして、基本は、源氏、平氏、藤原氏、橘氏を源流としている。現在の額田近隣を例に取ると、

「山族」は、たとえば 秋山、山崎、大山、坂本、柴山、横山、澤山、平山、住谷、根本、榊原、椎名、大森、富岡 、松本などであり、
 「川族」は小川、中川、助川、大沢、河合、石川、箕川、鶴川、清水,川又、黒澤、小沢、佐川、舟橋、小河原など
「海族」は北島、中島、小島、磯崎、海野、磯野、海後、矢島、岩崎、千ヶ崎などで、
 「田族」は中村、池田、小田、鶴田、田中、山田、成田、高畠、和田、田口、     久米、稲田、小田倉、小田内、森田、本田、樋田などである。
 「武士族」は軍司、郡司、武士、武石、庄司、結城などである。
 「神官」は鈴木、高橋、斉藤の三つが主流で、
 「鈴木」はもと「穂積氏」であり、農作の「稲子積み・いねこづみ」の真ん中に立てた木の棒から、「寿寿木・すすき」の名前が生まれた。農民の稲の豊作を祈る神主だったのです。
「稲子積み」の木の棒は、天の稲魂(いなだま)を招くためのもので、稲作の神様はこの棒を伝って地上に降りてくる。だから鈴木氏はもともとは農事関係の神官だったといわれています。
 
全国の鈴木姓は現在(*20年ほど前の調査)主として東日本を中心に200万人も居るそうですが、殆どが熊野権現の神主の末裔が全国に分布したもので、稲作農民の広がりとともに、いわば神道の布教師として鈴木氏は全国に急速に広がったに思われる。額田にも鈴木氏があり、紀州説、佐竹説がある。
 
 「高橋姓」は農民の神官ではなく、【貴族階級と神との接点】としての神官であり、「斉藤姓」は斉宮(いつきのみや)であった「藤原氏」から出た「斉藤氏」である。確かに地元を探しても神職の姓は那珂市静の静神社が常陸太田市の真弓神社が斉藤氏でもある。「八代」という姓がある神官の姓で、八代は社(やしろ)であり、これも運の良い名字である。
なお、斉藤氏が出たついでではあるが、藤原氏は多くの姓が在り、国名や郡を名をつけて、分けた経緯があり、加賀の加藤、武蔵の武藤、那須の須藤、佐野の佐藤、近江の近藤、遠州の遠藤、伊豆の伊藤、備後の後藤
とあるのも興味深い。額田近辺においても武藤氏、加藤氏、佐藤氏、遠藤氏、近藤氏、後藤氏が見られる。藤原の祖は中臣氏、そのルーツを探ってみる。

                     
中臣氏のルーツ 中臣御食子
なかとみのみけこ (?〜?)
略伝
飛鳥時代。
中臣(藤原)鎌足の父。
中臣可多能子(しめすへんに「古」)の子。
「彌気」「美気古」とも書かれる。
「連」姓で鹿島神宮の宮司説があり、中臣鎌足が鹿島から出て、中央で活躍したという。これが元で鹿島の神を春日大社へ遷したと言えば孫の藤原不比等が春日大社に力を注ぐのは頷ける。春日大社の縁起に鹿島の神が鹿に乗って春日大社に遷る絵を見せられて、何故にと疑問をもったが納得がいったものです。
大伴久比子━━━智仙娘
         │
         ┝━━━━鎌足━┳定慧
         │       ┣不比等
         │       ┣耳面刀自
         │       ┣氷上媛
         │       ┗五百重媛      
         │
 中臣可多能子━┳御食子
        ┣国子━━━国足━━意美麻呂
     ┗糠手子━━金+
ここで名字と苗字について述べてみます。
名字のもととなる氏姓制度は大化の改新後、出てまいりますが一般に導入されたのは貴族が平安時代となり京都の道筋の地名や寺の名を名字としました。一条家。九条家、武者小路家、西園寺家や徳大寺家といった具合でした。武士の台頭により名田開発が進み、その地名すなわち字(あざな)が出てきてそのものの名字として名乗りました。名田の支配者、字の支配者といえます。源氏の源昌義が佐竹の地の佐竹氏を名乗り、甲斐源氏武田発祥地といわれるひたちなか市の武田の地をとって武田義清と名乗りました。常陸太田の太田城を追われ、小野崎に落ち着く藤原氏系の太田太夫も小野崎氏を名乗ります。那珂氏、江戸氏、大塚氏も同様に地名をとり名字とします。名田の連合体を示すのが後の戦国の大名に育って行きます。名田の主は名主とも言われました。その中で名をとらすなどと家来ができ苗字が生まれます。田と苗の関係といえば分かりがいいでしょう。主従関係も明確になりました。

遡って、常陸の国は常陸風土記によると、常道(直道)といわれた時期があり、ひたみちの奥、みちのおくが「みちのく」と言われたといいます。平安時代征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首領アテルイ(鹿島神宮に悪路王としてのお面がある)の征伐に行くことは知られていますがこの当時は大和の国の一番はずれの国は常道(ひたみち)国でした。常陸の国になり、陸の奥という考えの下、陸奥(むつ)国ができます。ですから常陸の国は征伐者の進軍により、国の境は動いたわけです。岩城国ができたのは後のことでした。陸奥国も最終的に青森まで退いたことになります。そのような中にあっても地方の抵抗は続きます。蝦夷、阿部氏、清原氏 、藤原氏と覇権は移ります。源義家の奥州遠征もあり、数々の伝説も生まれます。そして、奥州藤原氏も源頼朝の前に平定されていきます。
一方源義家の弟、源義光が常陸の国に残り、佐竹氏、武田氏の祖となりますがその当時の常陸の国はまさに平氏の国でした。地方の豪族は平氏との縁組を望んだのです。源義家も母は平直方の娘でした。久慈川流域には千葉氏系の高畠氏、鴨志田氏、宇野氏、宮崎氏といった平氏系の名が見えます。それは、千葉宗家を筆頭とする九曜紋に現れています。源平の合戦に佐竹氏が中立であったのもわかるでしょう。源氏の流れも額田系を遡れば源義家の弟義光の孫源昌義が佐竹氏を名乗り馬坂城が築かれ、3代目佐竹隆義のときに太田城を奪取し太田にはいります。佐竹昌義の台頭から数えて5代目佐竹義重公の時の次男義直のとき分家し、1249年、額田城を築きます。1185年(1192年)に源頼朝により鎌倉幕府がひらかれて60年を過ぎてのことです。現在の額田城より、西側にあったと言われています。佐竹氏は10代続き、佐竹本家の跡目争いにまきこまれ、本家が上杉家から婿を娶る考えに反対し、水府の山入氏の乱に加担し1423年に滅ぼされます。約170年の額田佐竹氏の時代が終わりを告げます。その間に中央では南北朝の戦いがあります。関城の関氏、瓜蓮城の楠木氏、那珂氏が敗走します。那珂氏の一部のみが生き残ります。これが江戸氏の流れです。
一方、瑞龍の小野崎氏も勢力をつけ、分家をしていきます。今の日立の助川氏も小野崎氏が助川郷に入り助川を名乗り、大久保、滑川、相賀氏、宮田氏と流れて行きます。また、小野崎本家も北茨城の松尾に移らされ、それから分かれて、額田、石神に分家していき、それぞれ額田城主、石神城主となります。
それぞれ自立性をもち、力をつけていきます。額田小野崎の始めての城主は佐竹臣下の小野崎通重がなり、さらに自立性を保ちながら力を付けていきます。現在の壮大な額田城郭も小野崎氏となってからです。2代目で水戸の江戸氏から養子を迎えたのも、江戸氏が後ろ盾となり強大化に拍車をかけたともいえるでしょう。(参考までに北朝からの江戸氏であるがもともとは南朝方の那珂氏(下江戸)から起き、河和田城主を経て水戸城主となります。壮烈な南北朝時代の戦いを経ての結果であります。) 額田城跡は本丸、二の丸、三の丸が連郭を成しその周りを複雑に廓が囲み、多連郭を形成する方式となっております。堀は空堀ですが14、5mあり攻撃を難しくしてきました。南に有賀池、北を久慈川が流れ、大勢の軍勢が渡るのは困難でした。なお、有賀池は大小2つの池があり、雄池、雌池といわれ通称鶴が池と言われました。
このようにして自立性を高めながらも、同族、石神城との戦いや本家筋への横領等を繰り返しながら、額田のみではなく、ひたちなか、東海、常陸太田の地域にまで覇権を強めていき、一時は本家佐竹氏を脅かすまでになり、田渡、白羽までに及んでいました。しかし、常陸の国を統一しようという本家佐竹氏に1591年に滅ぼされる運命となります。佐竹本家20代佐竹義宣により小野崎九兵衛照通は追放され奥州伊達を頼り、逃亡します。ここに170年間の額田小野崎氏の時代は終わりを告げ、340年の佐竹からの額田氏の時代に幕がひかれました。340年というと長期にわたっての支配で徳川幕府の300年弱からみても長期覇権と言えます。
その間の家臣の名字に触れてみますと額田小野崎から分家した小田内氏、日立地区の姓で今でも町名となっている大久保氏、助川氏、大森氏、宮田氏、江戸氏系の箕川氏、常陸太田の田渡城主の内桶氏、照通の奥方の逃亡を助けた藤咲氏、日立からの青山氏、ひたちなかの清水氏、松本氏、木名瀬氏等数多くの家臣名が近隣に残っているのが興味深い。ちなみに確認したが小田内氏、助川氏はまさしく小野崎家紋左二つ巴でもある。額田永井にある助川家には二つ巴の鍔の古刀が残っている。またこの永井という地名にはいま、永井氏は居住しておりませんが常陸太田市磯部町に見られます。そして、舟橋氏、関氏、樫村氏、原氏、田所氏、根本氏、椎名氏、武藤氏、横山氏、渡辺氏、片野氏、加藤氏、富岡氏、柴山氏、秋山氏、住谷氏、小田倉氏、鈴木氏、草野氏、榊原氏等は何時、城の郭内に居住するのか興味深いものがある。何時、家臣となったのか。また、疑問も残るところでもある。現在もある菅谷の樫村館、軍司館、宮田館、加藤館、平野館、藤咲館は江戸氏家臣かまた額田家臣か興味深いものがある。菅谷は江戸氏と小野崎氏の接点となりました。対立、和睦と城主の意思で左右され、大変な土地柄でした。樫村、軍司、加藤は額田にも見える名であり額田方の可能性は高いといえます。