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避難場所のご紹介

避難場所 青遥学園額田小学校
 水害、地震災害、原子力災害、竜巻災害、火災等考えられる災害は茨城県においても対策が講じられてきていますがケースバイ、ケースの避難方法が考えられます。屋外へ即刻逃げるケース、屋内でじっととどまり、防御するケースが考えられますが、大切なことはいかに被害を最小限に食い止めるかという減災の意識を持つことです。また、いざ災害時に緊急避難用に対応するための避難グッツなどを準備していくことも大切でしょう。自分はどこにまず逃げるかという確認も必要でしょう。
お寺の駐車場や学校のグランドは屋外に逃げるスペースとしては有効です。地震の際には畑に逃げて今回事なきを得ている例、水害や津波は年寄りの経験が役に立ったということを聞きました。どのような事例があったかも聞いておくことは重要です。
一番可能性のある災害は竜巻ではないでしょうか。最近もつくば市で大きな被害が出ました。
その現象や事例が研究されています。どのような天候の時、竜巻は起こるか。
積乱雲が出て、急に黒雲が発生する現象です。この現象を見たら、家に入り、ガラスの有るところから離れ自分の身を守ることが大切です。屋外でスポーツ等をしている場合は直ちに止めて、状況判断を即座にして対応しましょう。指導者は防災対策の講習などを受けて知識をみにつけておくことも必要でしょう。【茨城町渡辺平防災士(額田出身)の言より】

竜巻は侮らない

竜巻の様子
つくば市で大きな災害となった竜巻、小さな竜巻でも威力があり、馬鹿にしない。2015年の額田の事です。自転車で走りながら小さな竜巻が来るなと直感し、そのまま大したことはないと走ったそうですが。倒され、後続の車に助けられ、病院に入院していたとの事でした。あの時、立ち止り、動向から逃げればよかったと言っていたとの事。即座に状況判断をして対応することが大切です。事の大小は関係ありません。

那珂市の防災 常総市の防災 水害に習う

「茨城県常総市大水害
過去に何度も水害の体験をしても、うちだけは、ここだけは被災しないという意識がなぜ働くのだろうか。
のど元過ぎれば熱さを忘れるという言葉があるが時が経つと、さらに20年経つと世代交代により災害の経験を忘れてしまう。地震による津波も同じであった。遠く牡鹿半島の月の浦でその事前の予兆が起こった。海水が引き、海の底が見えたという。年寄りがいち早く、叫んだ。大変な津波が来る。裏山に上がれ!!
それで「私たちは助かったの。」みな、若い人たちは、逃げ遅れて、亡くなってしまった。年寄りの経験と咄嗟の行動であった。予兆の感知や情報の先取りは災害の減災という意識を一人一人が持つことが大切だ。
自然を甘く見過ぎるが為の災害がありはしないか。中国での土砂崩れ等はいい例ではないか。
予兆の見逃し、情報の見逃し、警戒心の油断等が逃げる事の遅延に繋がり、大災害を引き起こすことになる。過去に鬼怒川、小貝川の災害は7から8年でやってきている。それでも、堤防のかさ上げを欠いたところがあるという。森林の伐採は続く。禿げ山は増えている。その跡の植林はしていない。治水と言う観点に立った植林もなされていない。幼いころ天竜川の氾濫を食い止めた金原明善と言う人の行為を小学校で習ったことを思い出した。治水の原点は植林だよ。昔は砂利船がいて川の砂利をさらった。砕石技術がなかったから川舟が砂利をすくい、川底が深かったように思える。こういった生活の糧としての砂利販売業の営みが防災の意味でも相乗効果をもたらしてきた。
こうしたことを踏まえて、かさ上げだけでは治水にならないと思えてならない。国の治水対策として、川幅を広げる。底を払う対策が必要ではないかと思うこの頃である。
財産をなげうって治水や森作りに貢献
 天保3(1832)年、遠江国長上郡安間町(現在の浜松市安間町)に産まれた金原明善は、18歳〜37歳の約20年間に大洪水を5回も経験し、洪水の恐ろしさを身を持って知っていました。当時の天竜川は「暴れ天竜」と多くの人々に恐れられ、水害に見舞われるたびに作物は奪われ、しかもその翌年は飢饉に襲われるのが常でした。

 慶応4年5月の雨が降り続いた時には、明善は寝食を忘れて水害を防ぐために奔走し、堤防を警戒していましたが、ついに5月19日大洪水となり最悪の事態となってしまいました。
          壮年時代の金原明善
壮年時代の金原明善
(明善記念館所蔵)
 明善は不眠不休の救助活動を続けながら、裁判所に要求して旧幕府の所有林だった磐田郡井戸ヶ谷の山林から工事用資材の伐り出しの認可をとり、浜松藩には難民のための食料を放出させたほか、応急工事が必要な箇所には自分の資金を寄付するなど、率先して復旧作業に努めたのです。この行動が明治政府に認められ、明善は天竜川水防掛に登用され、明治5年には浜松県の天竜川普請専務に、翌年には総取締を任されるようになりました。

 さらに明善は、治水事業を目的とする治河協力社を設立。しかし、国による改修費の大幅削減により、明治8(1875)年に自己の財産をなげうって約7kmの堤防工事を行ったのです。翌年には水防に関する一切を任されるようになり、鹿島から掛塚にいたる間の川幅を定め、堤防を改修する位置を決めました。これが堤防改良のはじまりです。

 ところが、明善はそれだけでは満足しませんでした。川の氾濫を治めるためには健全な森林を作る必要があるとし、明治19(1886)年、54歳の時、オランダ人の河川技術者リンドウと天竜川上流の森林調査を行い、豊田郡瀬尻村の御料林を借りて植林に着手したのです。雑草を焼き、根を取り除き、岩を火薬で爆破するなどして新開など6ヶ所の苗圃でスギやヒノキ302,800本を育て、同時に新しく造った林道を含め66kmの道を開きました。はじめは彼の行動を非難する人たちも大勢いましたが、明善は少しも気にせず森づくりに励みました。3年かけて育てた苗を自分で担いで登ったり、山小屋に寝泊まりしながら一生懸命に植林をする明善の姿は、次第に人々の心を動かし、多い時には800人もの人々が手伝いに集まったそうです。こうして292万本のスギやヒノキが山で育ち、今では天竜美林と呼ばれるほど全国的にも知られる森となったのです。しかも、明善はこれらの木すべてを国に差し出し、その後も北遠の森だけでなく、伊豆の天城山、富士山麓など県下各地で森作りの指導をするなど、世のため人のために働き続け、多くの人々に尊敬されました。
天守閣
明善翁、最後の山林視察(明善91歳)。
大正12年(1923)6月(明善記念館所蔵)
 森作りに捧げた明善の生涯は92歳で幕を閉じましたが、各地の山々に植えられた木々はその後も生長を続け、一部は今でも記念林や学術参考林として残っています。また、明善が最初に植林した佐久間町の森には明善神社が祀られ、彼が産まれた浜松市安間町の家が一般公開されているほか、生家前の金原明善記念館では明善の資料を展示するなど、治水や森作りに貢献した彼の偉業をたたえています。