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額田悠久の歴史 - 安土桃山時代

1249年佐竹宗家5代秀義の2男義直から額田城を本拠地として、北に佐竹宗家、東に石神、南に江戸の群雄割拠の時代を迎えた。山入氏との分家連合、石神 合戦、伊達小野崎の密約等を経て、額田340年の戦いは続いた。その城主がそれぞれの寺社仏閣を庇護し、信仰心が領民に浸透していく。現在に至っても当時 の流れをくむ寺社仏閣があるのがまさしく凄い。安土桃山は額田城の項目でご覧下さい。安土桃山の時代は戦国大名と言い、それ以前の大名は守護大名と言った。室町幕府によって任命されていた。

額田小野崎氏

額田小野崎氏

額田小野崎氏は秀郷流藤原系小野崎氏といわれる。佐竹義憲は小野崎通綱の子通重を額田氏の後にいれ、額田城主とした。しかし、通重には子がなかったため、江戸通房の子通栄を養子として跡を継がせた。元は太田城主太田大夫といわれ、通延を祖とした。その子通成は佐都荒大夫を名乗り、その子通盛が小野崎郷に入り、小野崎を名乗った。その額田小野崎氏は2代目にして江戸氏の血が入るも江戸氏秀郷流藤原氏の流れで那珂氏から江戸氏となり、水戸を治めた。小野崎氏は宗家が北茨城山尾にいて山尾氏を名乗る。石神城主は小野崎氏であり、石神合戦は親戚同士の戦いであった。

額田城

額田城
小野崎昭通が最後の城主として伊達政宗と関わりをもつ。詳細は額田城の項目参照。
江戸時代の小野崎昭通は水戸家に仕え、照通(久兵衛)と改めらる。

下剋上の時代

守護大名は室町幕府から任命された大名のことです。一方、安須千桃山の時代は戦国大名は幕府と関係なく、実力で大名になった人たちでした。つまり、実力さえあれば大名になることができる時代でした。
“剋” という字は、「負かす・制する」という意味で、「下剋上(げこくじょう)」という言葉は下の者が上の者に打ち勝つという当時の風潮です。

額田城の人々

菅谷延命院大般若経
額田郷源成寿丸
額田郷小野崎善十郎泰通
額田住井野上六郎衛門
額田の住井上藤衛門
額田住堀口縫殿助
額田の住長井重筑
額田の住長井重範息女甲子
額田の住左籐筑前守
額田の住高岡形形部小輔
額田住小泉周防守
額田住須藤兵庫允通宗
額田住内桶次郎左衛門重胤
額田内桶丹後守通胤
額田の住内桶駿河守
小野崎従通花押
富岡惣太郎
額田小野崎氏家中
城主 小野崎従通
父  小野崎篤通
叔父 小野崎泰通
弟  小野崎昭通 額田城最後の城主
宿老
   永井好雲斎盛景
   須藤兵庫允通宗
   箕川右馬允通幹
   富岡長門守通清
家臣
   内桶次郎左衛門重胤
   内桶丹後守通胤
   内桶駿河守
   井野上六郎衛門
   井上藤衛門
   永井重範
   永井深長房
   堀口縫殿助
   左籐筑前守
   高岡刑部少輔
   小泉周防守
   沢幡十郎右衛門
   藤作加賀守正通
客分 大久保采女
額田毘盧遮那寺大般若経寄進者
額田郷 小野崎善通
石神 小野崎通老
額田 福地河内守成本
額田 福地大炊助成勝
額田 白土豊前成定
額田 小泉修理介成文
額田西森戸 小泉鏡観門内
高野 清水伯耆守成次
額田 大内図書助道観禅門
   大内五郎左衛門
   大内道仙衛門
   大内七郎左衛門
   大内道安入道家善
   大内小膳式部広義
   武藤佐渡守
   寺門弥四郎
   寺門次郎左衛門
   布施虎次郎
   内桶虎松
   永井通範
   布施越後守成豊 
額田八幡宮修造
   城主宿老他
   大沢市右衛門
   大沢藤右衛門
   大沢若狭
   白土清兵衛
   白土縫殿介
   白土備前
   成田左京
   平山相模
   小田内大和
   川崎太郎兵衛
   寺門肥後
   渡辺縫殿之助
   田所外記
   片岡藤右衛門
   横山藤七
   小田倉弥左衛門
   高村大和
   郡司日向
   高岡太蔵ほか
現在の地と比較すると額田小堤、森戸、冨士山、搦目、本宿、古宿、中ノ町、
   向山、本米崎、四堰、常陸太田河合、磯部
   家系本末抄から本宿根本家、搦目は寺門、武藤家、新地草野家、森戸は小林家、戸祭家がある。不明であるが大谷家がある。
   これは江戸時代より前の情報による。