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2016年05月06日(金)

光圀の実像

表向きは大日本史編纂など功績があった光圀は果して名君であったか。
青年期の光圀は今の言葉でいえばぐれていたかぶきものといえる。そして女狂いは60を過ぎても続いたようだ。しかし常陸の国の殿様としては女狂いという価値基準が現代とは違うのかもしれないが。『水戸黄門 鈴木一夫著 中公文庫』からひも解いてみると
、……老境六十過ぎても女色寵愛の癖は続き「女色に耽り給い、ひそかに悪所に通い……」と、 若き時代は云うに及ばず殿様時代も盛大で光圀の云う遊び仲間こと”悪性なる者ども”は、伊勢桑名松平越中守定重、播磨明石本多出雲守政利、宇都宮奥平美作 守昌章、奥州八戸南部遠江守直政、仙台藩伊達綱宗、佐賀藩鍋島勝茂、佐賀小城鍋島元武、などの大名は女色放蕩で不良大名として改易などされた面々で、なか でも御存知!伊達綱宗は吉原の高尾太夫との浮名を留めた殿様です。そのほか光圀には旗本、町人なども加わった千寿(千住)会などもあり、浅草、吉原、千住 (千寿)、品川など茶屋で羽を伸ばしていた様子は、すべて光圀の書いた書簡文が残され、その内の一文      
小石川水戸藩邸(東京都後楽園庭園)陽石

… 光圀には、どこかの茶屋になじみの女がいた。 彼が”金州”とよんでいた旗本志村金五郎政豊への手紙で「楊枝(ようじ)くだされ、これまたかたじけなくぞ んじ候。この楊枝にてずいぶんずいぶんたしなみ、江戸へ上り候わば口を吸わせ申すべく候」(貞享四年九月二十八日付、志村金五郎あて書簡)などと、いい気 になってのろけている光圀の姿は、私たちが知っている謹厳、生真面目な明君像とは天と地ほどのちがいがある。…では、二代目水戸藩主としての治世をチエックしたいと思います。この問題も世の明君との喧伝とは大違い。とかく藩主としては情緒的行動ばかりで、財政経済に対する極端な知識の欠陥があり農民、藩士へ過酷な収奪が行われたのです。
”徳川吉宗とその時代” 大石慎三郎著 中公文庫より
……そのことは『古今税務要覧』所収のいま一つの史料が裏づけている。 それは水戸藩の”附荒”(つけあら)についての史料である。
附 荒というのは、本来ならば作付けされるはずの田畑が、作付けされないままに放置され荒廃している耕地のこと。 それはあまりにも年貢がひどいために農民が 逃亡してしまうか、または領主が行うべき義務を負っている用水土木工事などの社会投資がなされないため、耕地が荒廃して作付けできないことから起こっ た。……”附荒”現象は光圀の治下で始まり、だんだん激しくなる。延宝八年(1680)には一万石の大台を超えるようになり、光圀が職を退いた元禄三年 (1690)には実に六万石を超え、これも全江戸時代の最高位になっている。…水戸藩の禄高は二十六万石だから、実に全領の23パーセントもが荒廃してい る計算になる。徳川幕府は「民を亡所(ぼうしょ)にしないかぎり諸大名の内政に干渉しない建前だが、光圀の政治はまさに、「民を亡所」にするものであっ た。もし一般大名の場合なら領地没収というとこらだが、光圀は御三家だから隠居ですんだのだという解釈も成り立つのである。…延宝五年(1677)、光圀 は「償金」(つぐないきん)制度といって、藩士から禄高に応じて一定の金を上納させる制度をはじめるが、これはだだでさえ楽でなかった藩士の生活を一層圧 迫した。光圀の治世下、水戸藩は農民(庶民)のみならず、武士まで痛めつけられていたのである。……
この収奪は何に支出されたのか? 藩財 政の三分の一を占める事業、歴史編纂(大日本史)があります。また、常陸那珂湊の夤賓閣(いひんかく)御殿や江戸藩邸後楽園造園の出費、御三家の対面保持 費、江戸定府の過大出費など出納事情があったのです。さらに光圀の尊王思想は水戸藩を二分し尊王派と保守主流派との抗争に明け暮れ水戸藩士には明治維新に 寄与できる人材さえおりませんでした。
黄門様の恣意的な歴史編纂では南北朝の南朝天皇の正統化は有名です。 なぜか? 征夷大将軍徳川家康には清 和源氏の末裔新田氏の家系を入手して松平から徳川氏に改名した経緯があります。大日本史では光圀も自称の先祖である新田氏が仕えた後醍醐天皇との誼から南 朝を正統とした我田引水なっております。戦前の文部省も北朝側武将足利尊氏を逆賊に設定し糾弾すろ虚構を平然と行いました。光圀は治世でも領内の仏教宗派 を邪宗視して圧迫、神道でさえ八幡神社を”八幡”潰しとして追放してしまうのです。 これは明治維新の神仏分離、廃仏毀釈の日本文化破壊へと通じた行為 だったのです。……ついに、将軍綱吉から秘かに藩主隠居示唆が伝えられ光圀の隠居願い提出になりす。さっそく将軍綱吉から『封地に隠居の暇たまう』旨が伝 えられ、元禄三年(1690)御三家水戸藩主の座を去りました。この問題はかくしゃくたる光圀が、なんと健康を理由に隠居を希望し、これに将軍が快く応じ て中納言の官位を授け、ねぎらった仕掛けです。
光圀はその心情を養世子綱条宛て書簡に『君、君たらざると雖も臣、臣たらざるべからず』と認めておりました。光圀の罷免の理由は?、水戸藩家老藤井紋大夫刺殺事件との関連は? 研究者の著述から感動した部分を引用させて頂きます。
 ”徳川吉宗とその時代” 大石慎三郎著 中公文庫より
……光圀の時代の推移を読む目のなさ、またその原因でもあり結果でもある超財政音痴的行動、ためにひき起こされた水戸藩上下を完全に巻き込んだ財政破綻を救うため、その意志に反して隠居させられたのではないだろうか。幕府と水戸藩との一致した意思によって――。
そ の場合、藤井紋太夫は光圀子飼いの臣であったにもかかわらず、光圀の側に立って行動しなかったのではないだろうか。あるいは一歩進めて紋太夫が光圀のあと を継いだ水戸家第三代藩主綱条の世子吉孚の養育係をしていたところから、吉孚の代のことを憂えて、傷が少しでも浅いうちにと光圀隠退を積極的に推進したの かもしれない。
現代流にいえば殺人者であるが当時ではお手討ちで片づけられるのかもしれないがかなりの事をしでかしている。。