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2016年05月05日(木)

額田藩の存在

藩という定義は中国の歴史から来ています。江戸時代表立って藩と言うのは使われませんでした。江戸末期になって使われてきたと言われていますが、儒教の学者は使っていました。それは新井白石でした。

藩翰譜』(はんかんふ)は、江戸の家伝・系譜書。著者は儒者の新井白石で、全12巻藩譜との略称でも呼ばれる。

元禄15年1703年成立。元禄13年の甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたもの。1600年から1680年までの内容が収録されている。

親藩、譜代、外様の藩の存在でした。
額田藩の存在として1661年徳川家康の孫松平頼元によって額田に起こされた。藩には城もち大名と本陣もちの大名がいた。額田藩は後者であろう。ここで大名の種類について述べる。大名には親藩、譜代、外様、準譜代といった種類があった。親藩とは将軍の一門から発する二十二藩です。譜代とは徳川家に代々使えていたもので、百四十三藩があります。 準譜代は八藩。外様、すなわち信長、秀吉時代には家康と同格だったもの百三藩。家康にとって煙たい存在でした。しかし、石高は外様大名の方が圧倒的に多いのです。

先の準譜代とは、出自は外様だが願い出て譜代扱いとなったものを指します。幕府の老中とか、若年寄などの政治機構に関与するのは、全て譜代大名です。中には政治に参加することを望んで、外様から譜代にと、お願いして、譜代になるのもいたので、それを願い譜代といいました。
親藩の中、徳川御三家の石高を調べると、筆頭は尾張藩六十一万九千石(支藩、高須藩三万石)。 紀州藩は五十五万五千石(支藩、西条藩三万石、および吉井藩一万石)。 水戸藩三十五万石(支藩、府中藩二万石、宍戸藩一万石、守山藩二万石)でした。ほか十九藩あります。
寛文2年(1662年)初代藩主頼房の4男刑部大輔松平頼元と5男松平頼隆の知行地ができた。
1664年手前取り付けになり、頼元が額田、頼隆が保内が知行地であった。正確には額田村、米崎村、高岡村の3村であったが額田村と称した。
頼元はこのほかに那珂郡の石神外宿、久慈郡の磯部、茨城郡の平戸、秋葉、押切、下野村、それに多賀郡の伊師、伊師浜、伊師本郷、友部、高原、砂沢、折笠、田尻、滑川の諸村であった。(土芥寇□記)には頼元について「居所常州糠田自江戸三十四里。本知二万石。ただし、新田を以って、配分の知なり。新地開運上課役掛かり物等、都合及三万石、米能く生ず。払い中也。年貢所納、坪し5つ23分。家中へ大概地形を渡す。新参者には蔵米を以って4つ成りにして与ふ」と記されているので額田に徴税家臣の詰役所などが置かれたのかもしれない。
 1635年江戸幕府は武家諸法度を発しその中で参勤交代の制を大名に課しますが額田藩は水戸藩連枝として免じられています。