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2016年02月11日(木)

茨城の観光の額田のゆかりの先人の文章の入れ替え

常陸太田市史を読んでいて、額田に関連する長久保赤水の七友立川敦美に当たった。那珂市史には単に原好誼軒の師であると書かれていたから繋がった。物事は裏から見るとすべてが繋がる。原好誼軒は白羽生まれで原家へ養子に入ったのである。そもそも婿入りする前から立川は師であった。明治に入って最初の代議士も立川だとすると常陸太田を長きに亘ってリードしてきた一族だね
原好誼軒は久慈郡白羽の渡辺家に生まれ、寛政5年に額田の原光重に請われ養子に入った。当時(1803年)、原家は、47石3斗3升7合の高持百姓で卵薬を販売し、村内きっての裕福な家で幼い時から学問を好み、地理学者長久保赤水、に学んだ太田郷の立原淳美に学び、励んだ。淳美は温厚恭敬な性格から門人が集まり、慕われ地元の若者を教授していた。額田の原好誼軒をはじめ、医師で国学者、歌人の伊東隆安、岡田村の村役人で立原翆軒、長久保赤水、鈴木松江と交遊のあった中村清四郎等傑出した人物が多い。淳美の没後、好誼軒は、家塾『占春亭』を開き、指導には『考経』を用い孝行を説いた。那珂郡、久慈郡から人が集まり、薫陶をうけた。医談会や郷学会という学習の場ができ、交流が深まり、地方庶民文化の高まりをみせた。また手まり唄を作っては女児に唄わせたりした。地域のリーダー格として額田駅長を職に就いた。(駅長と言っても当時はまさしく厩の長) 有名な豊後の水府の青蓮寺の行き倒れの父を迎えに九州から出てくる二孝女伝説の物語の登場人物でもある 1804年(文化元年),初衛門は,知人に誘われ,浄土真宗の開祖親鸞上人の遺跡巡礼の旅に出ました。ところが旅の途中足の病となり,青蓮寺にたどり着 いたときには歩くことができなくなってしまいました。青蓮寺の住職証吟夫妻は,初衛門の病状を心配し,しばらくの間面倒をみることにしました。
 しかし,足の痛みは回復するどころかむしろ悪化し,日常生活も困難なほどにひどくなってしましました。もう臼杵に帰ることは不可能だと考えた住職は,境内に一室を作って寺で生活させることとしました。
 その後,住職の妻をはじめ寺男まで寺中の人たちが,初衛門の世話をしてくれました。また,村の郷医である猿田玄碩は無償で治療にあたりました。村人たちも見舞いに訪れ,食べ物やお金を置いていく者もいました。
 このようにして,初衛門は,7年の月日をこの場所で過ごすこととなりました。。額田村では常念寺の住職はじめ5人の人物がこの豊後からきた二人の娘に餞別を持たせ歌をうたい送った。好誼軒はそのうちの一人である。その歌が大分県教育委員会で所持していた。それから、常陸太田市で大騒ぎとなり、青蓮寺に近年、二孝女の石碑が建立されたのはあまりにも有名な話である。ちなみに、発起人は前茨城県立太田一高同窓会長中村洋一氏である。大分県の臼杵の小中学校の校歌に豊後の二孝女が入っているという。なお、引接寺には原好誼軒の墓が弟子たちによって、1852年寿蔵の碑を建て、今でも残っている。
なお、好誼軒の肖像画が画家でもあった庄屋御殿といわれる鈴木家住宅の主鈴木市十郎が墨鮮で書き現存している。(カワサキ商会保有)
ところで、ここに出てくる中村清四郎は中村先生の先祖かな。興味深いものがある。