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2016年01月02日(土)

保母の日本第一号は茨城にいた。豊田ふゆ芙雄

額田北郷の神奈川の先輩から日本で初めての保母って?電話がかかった。即座に諸沢みよと答えたが豊田ふゆと答えるのが正解だった。常磐と大成学園の創始者をごっちゃになっていたんだ。豊田ふゆは豊田天功の息子の嫁として豊田家に入った。水戸藩郡奉行・桑原信毅の次女として、水戸に生まれた。幼少時から学問を好み、穴沢流薙刀術の伝授も受けた。文久2年(1862年)、豊田天功の子・小太郎(豊田香窓)と結婚した。しかし、慶応2年(1866年)に香窓は暗殺され、生涯、再婚をすることもなかった。そのため芙雄には子ができず、天功の孫の伴を養子とした。

明治8年(1875年)に上京して、新設された東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の読書教員となり、翌明治9年(1876年)に四等訓導兼副舎監となった。同年10月、同附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)が開設されるとその保母に任命され、日本の保母第1号(官立幼稚園の保母第1号)となった。

明治20年(1887年)、水戸徳川侯爵夫妻に同行してヨーロッパに渡り、文部省から依託されて女子教育を学んだ。帰国後、栃木県などで女子教育に従事し、明治34年(1901年)に新設された水戸高等女学校(現在の茨城県立水戸第二高等学校)と女子師範学校の教諭を兼任して国語漢文科の教員免状を受けた。大正11年(1922年)に水戸高等女学校を退職すると、私立好文女学校講師や大成女学校(現在の大成女子高等学校)校長などを務めた。「女が女の特性を発揮させ,良妻賢母になるために高等教育が必要」であると説いて、日本の女子高等教育の開拓・発展に大きく貢献した。
ちなみに藤田東湖の妹、雪子が母である。