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2016年05月06日(金)

水戸黄門と助さん、格さんの実像

5月6日、中央公民館で那珂市歴史愛護協会の小林副会長の講演があった。聴講者35名でテーマは水戸黄門と助さん、格さんの実像であった、テレビでお馴染みな水戸黄門であるが子の3名の関わりは大日本史編纂という水戸家の大事業を為さんがための光圀と学者の二人と言う実像についての講演であった。
  • 彰孝館総裁を後にやることになる助さん格さん。光圀の史臣と言われています。史臣たちは全国各地に史料を求めて旅をしましたが、
    これが後に「水戸黄門漫遊記」として脚色されることになります。

  • 助さんは、佐々十竹(ささじゅちく)(介三郎宗淳)(1640〜1698)、神戸湊川に佐佐に命じ調査の旅に出した。

  • 元禄5年(1692年)水戸光圀公(みとみつくにこう)(義公)はそのお墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てられ、御墓所を立派に建立されました。この御墓所が建立なるや、さらに多くの人々が墓前にお参りし、正成公を偲びその御遺徳(ごいとく)をたたえました。
  • 格さんは、安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)(1656〜1737)のことであります。
  • 水戸黄門の名は、光圀が徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり武家官位として権中納言を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である黄門をとって広く用いられていた別称である。また光圀について語るに藤井紋太夫の誅殺事件である。これは偉人義公とのギャップである。また、藩政についていえば、領民が重税に苦しみ、逃散と称し領民が逃亡した。このような光圀からは黄門さまのの仁政は想像もつかないのである。

光圀は額田においても浄鑑院常福寺や阿弥陀寺、観音寺 鈴木市十郎との関わりが日乗上人日記に記されている。佐佐十竹についても常陸太田の正宗寺に眠っています。