メニュー
最新情報
2016年01月20日(水)

 額田歴史の中の棚倉街道は上町街道と下町街道があった。

棚倉街道は2通りある。江戸時代から棚倉街道は青柳渡しと枝川渡しを渡る街道である。なぜかと言うと枝川のほうが海への回漕が便利で荷物を運べたからである。塙の徳川将軍家の天領や水戸も副将軍家で江戸住まいであり大量の食物や木材は那珂川より海で江戸へ入った。青柳渡しは上町道といい、水戸城から西へ向かい、那珂川を青柳に渡り、五台、菅谷宿を通り、杉をとおり高岡、坂下。
枝川渡しは下町道で水戸城からすぐに那珂川をわたり枝川、武田、田彦から寄居、堤、横堀(横堀の地蔵尊)、高岡(徳川家初代武田信吉を祀る浄鑑院常福寺)、坂下となり、ここで合流する。これが棚倉街道の本街道である。ここから、有が池を迂回し、鱗勝院の西を通り、引接寺の西を通り、鈴木家住宅の西を通り、3軒町を通り、八幡社を抜け久慈川舟渡へ。吉田松陰は浄鑑院常福寺にも立ち寄っており、下町道を通ったと推測される。横堀街道といわれる棚倉街道はつい先ごろまでバスが走っていた。
棚倉街道は水戸から棚倉であるがその延長に水戸支藩の守山藩(旧額田藩)があったのと天領が塙にあり、里美の徳田宿に年貢米が集められ、駄送にて町屋、太 田、河合、額田から横堀、寄居、田彦、武田、枝川にて積み込まれ海に出て江戸に送られた。また、守山藩は支藩であり、水戸主藩を頻繁に行き来していた。こ の通りを下町道といった。上町道は安永2年(1773)に宝坂村(現矢祭町)の農民源蔵が伊勢参拝の折りには、異なるルートを通る。宝坂村より町屋を 通り、太田より額田へ その間1里、川舟渡しあり、額田より菅谷経由で青柳まで3里15丁、青柳より水戸上町まで11丁 その間那珂川川舟渡しあり。大中 村の木村謙次は寛政5年(1793)に蝦夷地の実情視察の帰り、棚倉街道(下町通り)を通って、水戸に帰っている。大中村の白石利兵衛宅に3月28日に泊 り、翌29日折橋村太田村、磯部村、下河合村、久慈川渡し、額田、堤村、寄居、田彦、市毛、枝川村、那珂川から渡し水戸横竹熊町に到着と『北行目録』に記 してある。なぜ、下町なのかと考えたが蝦夷調査の資料などがあり江戸の殿様への報告物等もあったのかもしれない。水府志料に田彦の事が記されており、岩城相馬街道と棚倉街道の分かれ道と記されている。
これから、額田からの街道で有が池の渡しと書いてないところをみると鱗勝院西を通り高岡に入った。
額田の古老からの話によると明治になり、現在の道路が出来、有が池は煉瓦でつくられ煉瓦橋といい今でも現存している。
棚倉街道は上町道、下町道があったと言われている。荷物の大きさや江戸への荷物は下町道を通ったように思える。ただ、久慈川舟渡が2つあり、上河合と下河合があったが上河合は額田の坂が急で、下河合から馬坂と言われる坂を歩いたのかもしれない。戦争中、下河合の人たちがヤミ米を運ぶルートで闇橋といったが今は無い。南に有が池があり、下河合を渡り、馬坂を通れば、額田東郷を通り、本米崎まで村松街道を通り、有が池の東を通れば松原から横堀に抜けられる。
有が池をどう回避したかが疑問である。