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2021年09月18日(土)

額田の歴史的な地名や人名について、額田城跡会員であり那珂市観光ボランティアガイドの小田部氏より随筆形式で寄稿いただきました

額田周辺あれこれ

 今年7月で74歳、団塊の世代もこんな歳になった。郷土の文化を孫たちに伝えるのも役割だと思うようになった。地名や史実をである。
 
 久慈川の河岸段丘が「クジラ」に似ていたところから、「久慈」の名がついたように、幸久橋も万葉集から採られ命名された。額田小学校二代目校長 野口勝一氏の選である。野口雨情の伯父にあたり、衆議院議員に北茨城からなった人でもある。
 久慈川の下流に榊橋がある。土木内の「木」と石神の「神」をとり、「榊橋」とした。それぞれに先人の知恵である。
 額田城本丸に立ち、旧有ヶ池を見下ろすと、向こうにお山が見える。「向山(むこうやま)」と呼んだ。また、右前方に高い丘があり、「高岡」と呼んだ。
 現在の那珂二中の場所に、浄鑑院常福寺があった。五重塔があって、天狗諸生の乱で焼ける前に、あの吉田松陰が訪れている。
 徳川十五代将軍慶喜が、何と額田北郷の寺門治平宅に泊まった。父斉昭の妻であり、慶喜の母である吉子(よしこ)女王の葬式に立ち寄ったとある。
 明治時代第4次伊藤博文内閣が総辞職になった事件があった。星亨(ほしとおる)大臣が汚職で捕まった東京疑獄事件である。時の検事が額田北郷出身で東京帝国大学(現 東京大学)卒の本田桓虎(かんこ)である。これがなかったら伊藤博文は朝鮮で暗殺されることがなかったかも知れない。
 そして、雪印乳業(現 雪印メグミルク)の創業者であり、衆議院議員を勤めた黒澤酉蔵。「北海道開拓の父」や「日本酪農の父」と言われているが、何とルーツは額田東郷の草野家である(※1)。上宮寺(額田東郷)の草野家墓地に「札幌市 黒澤酉蔵」の名が刻まれている。
 多くの紹介できないほどの素晴らしい先人たちを排出した額田は文化の中心地であった。この文化を守っていくのも残されたふるさとの役割なのかも知れない。

 2021年9月18日
                        額田城跡保存会会員・那珂市観光ボランティアガイド
                                      小田部 一彦

※1. 黒澤家自体は久慈郡世矢村(現 常陸太田市世矢地区周辺)にあったが、酉蔵は草野家からそこに養子に入っている。

 それぞれの人物・場所については、リンクを貼っておきます。さらに詳しく知りたい方はご活用下さい。