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廃寺の歴史

【那珂市域の社寺祠堂】より
1,観音寺 真言宗の寺で補陀楽山大音院と号し醍醐無量寿院直末である。額田八幡別当であった。1440年に佐竹義重との額田合戦で炎上。1711年にびる遮那寺が向山より移っており、元禄以前に廃されている。観音堂だけは今でものこっている。
2、梅松院 真言宗醍醐報恩院直末寺、白鳥山西龍寺と号した。社寺の縁起は1588年の額田の乱で焼失。門徒1か寺で百姓旦那21人 江戸中期に常陸太田の梅照院として移った旨境内の石碑に刻んである。
3、宝光院 真言宗 森戸山舎那寺と号した。琳海法印が開基であるが不明。中興は6代目俊興法印1373年法流伝授の記録がある。熊野権現は1481年開基、末寺門徒9か寺、門徒86人
4、常念寺 時宗 阿弥陀寺の北側墓地付近に歴代の常念寺住職墓標がある。相模藤沢山清浄光寺末寺で衆徳山と号した。開基は遊行上人2代他阿真教が1292年に建立したものである。1843年廃寺となり、太田の浄光寺に寄せ寺となった。今でも浄光寺には常念寺の大きな阿弥陀仏がある。
5、長林寺 鱗勝院の末寺で洞明山と言い、不動堂の別当。現在ある不動堂は城里町粟野に曳き寺になったが廃寺になり、再び現鱗勝院に曳かれたものである。
6、宥全寺 真言宗 額田城2の丸南に小高い丘に前両部山、前観音寺に石碑が残っている。1832年宥全寺潰しがあり、廃寺となる。現両部山のびる遮那寺に統合。
7心岸寺 浄土宗 薬王院心岸寺と称した。額田城主5代義直の菩提寺として建立。光圀の寺社改革で箕村に曳き寺その後引接寺ができた。+
8,
浄鑑院常福寺 那珂2中のあるところが浄鑑院常福寺跡で徳川家康の5男武田信吉が1603年に水戸で病死した。水戸藩初代藩主頼房の時心光寺と改号し光圀の時向山に移され、開山を常福寺住職清誉上人とし、常照山心光寺浄鑑院と号した。1709年向山を談林所とし、浄鑑院常福寺とした。1843年水戸藩が梵鐘提出命令を発したが提出免除の嘆願をしたが斉昭の怒りを買い常福寺を瓜連に戻す命令を出し、これに対し知恩院、増上寺の力を頼ったが受けられず、瓜連に戻された。伽藍は残ったが、天狗諸生のらんで焼失し、寺宝等は瓜連に移された
9、鏡智院 曹洞宗 有花山鏡智院岸桂寺と号した。開山は鱗勝院3代天山亮尚により1520年に建立された。1589年の額田の乱で焼失した。地元ではこの地区を『がんげじ』と呼んでいる。
10、盛賢寺 真言宗 永井にあったが崖下の不動堂の北方の高台が寺跡。度々火災にあうが1500年後朝法印が中興している。1688年から1704年に井関村(石岡)に曳き寺になり、現存している。
≪寛文開基帳≫
真言宗 梅松院、観音寺、盛賢寺、宝光院、正法院、安照院、乗林院
浄土宗 心岩寺
一向宗 光照寺、阿弥陀寺
時宗  藤沢遊行上人、常念寺
臨済宗 万渓そう
曹洞宗 鱗勝院、鏡智院、長林寺
山伏  本学坊、源蔵坊、山光院、覚蔵坊、大聖院、文殊院
常泉院の23存在のうち4つ残る 心岩寺を廃し引接寺
  

三光院『山光院』

三光院は江戸時代より修験者として有り、今でも称号として山光院と言われている。庭の片隅に『山光院』の手洗いの石がある。戸祭家に伝わる金砂神社から担いできたという恵比寿様は補修されご先祖様から伝わっているとのことで後継者に繋がっている。志田惇一キリスト教大学元教授の【金砂大祭礼】の渡御行列の先頭に額田の三光院が並ぶというのが書かれている。珍しい【鳥居】の家紋で佐都神社宮司であった江戸期、藩に反発し、剣の修行にでるという武者修行の伝統は現在に至るまで剣道の有段者を出している。

浄鑑院常福寺

浄鑑院常福寺
現在の青遥学園那珂第2中学校のあるところにあった。徳川家康の五男武田信吉が水戸で病死、その院号の浄鑑院を弔うため向山に伽藍を建立したのが浄鑑院常福寺である。藩主斉昭の時、梵鐘提出免除の願いを出すも聞き入れられず、瓜連に常福寺を差し戻す命令をだしている。知恩院や増上寺の力を頼ったが聞き入れられなかった。天狗諸生の乱で伽藍焼失した。宝物は瓜連常福寺にある。写真は瓜連の常福寺山門光景