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額田ゆかりの先人

額田を代表する先人たち
額田ゆかりの先人たちは引接寺やびる遮那寺、上宮寺にそれぞれ眠っています。
額田で私塾を開いた人、絵画で有名な人、東大で講義をした人。ナイチンゲール賞をとった人。長唄で有名な人、多岐にわたる分野で活躍しました。

沼田徳重小伝

国指定文化財 旧制太田中『県立太田一高』講堂
沼田徳重は額田村に明治29年にうまれた。額田小学校卒業後水戸中学に入るが太田中学が創立され、転向し、38年卒業後、陸軍士官学校に入学し、40年少尉となり、大正2年陸軍大学校に入学、卒業後教育総監部部員、東京帝国大学服務、教鞭をとる。その後陸軍中将。昭和5年から8年にかけ、東京大学の配属将校となった。軍事教育をしたが優秀な学生に接するわけで陸軍の中でも優秀な存在であった。議論好きで自宅に学生を招いてぎろんしていた。学生には好かれたという。支那事変に出征、転戦し活躍14年中国で病となり、帰国し死去。額田村村葬で引接寺に眠る【沼田徳重小伝 関正幸著】

原好誼軒


原好誼軒は久慈郡白羽の渡辺家に生まれ、寛政5年に額田の原光重に請われ養子に入った。当時(1803年)、原家は、47石3斗3升7合の高持百姓で卵薬を販売し、村内きっての裕福な家で幼い時から学問を好み、地理学者長久保赤水、に学んだ太田郷の立原淳美に学び、励んだ。淳美は温厚恭敬な性格から門人が集まり、慕われ地元の若者を教授していた。額田の原好誼軒をはじめ、医師で国学者、歌人の伊東隆安、岡田村の村役人で立原翆軒、長久保赤水、鈴木松江と交遊のあった中村清四郎等傑出した人物が多い。淳美の没後、好誼軒は、家塾『占春亭』を開き、指導には『考経』を用い孝行を説いた。那珂郡、久慈郡から人が集まり、薫陶をうけた。医談会や郷学会という学習の場ができ、交流が深まり、地方庶民文化の高まりをみせた。また手まり唄を作っては女児に唄わせたりした。地域のリーダー格として額田駅長を職に就いた。(駅長と言っても当時はまさしく厩の長) 有名な豊後の水府の青蓮寺の行き倒れの父を迎えに九州から出てくる二孝女伝説の物語の登場人物でもある 1804年(文化元年),初衛門は,知人に誘われ,浄土真宗の開祖親鸞上人の遺跡巡礼の旅に出ました。ところが旅の途中足の病となり,青蓮寺にたどり着 いたときには歩くことができなくなってしまいました。青蓮寺の住職証吟夫妻は,初衛門の病状を心配し,しばらくの間面倒をみることにしました。
 しかし,足の痛みは回復するどころかむしろ悪化し,日常生活も困難なほどにひどくなってしましました。もう臼杵に帰ることは不可能だと考えた住職は,境内に一室を作って寺で生活させることとしました。
 その後,住職の妻をはじめ寺男まで寺中の人たちが,初衛門の世話をしてくれました。また,村の郷医である猿田玄碩は無償で治療にあたりました。村人たちも見舞いに訪れ,食べ物やお金を置いていく者もいました。
 このようにして,初衛門は,7年の月日をこの場所で過ごすこととなりました。。額田村では阿弥陀寺の住職はじめ5人の人物がこの豊後からきた二人の娘に餞別を持たせ歌をうたい送った。好誼軒はそのうちの一人である。その歌が大分県教育委員会で所持していた。それから、常陸太田市で大騒ぎとなり、青蓮寺に近年、二孝女の石碑が建立されたのはあまりにも有名な話である。ちなみに、発起人は前茨城県立太田一高同窓会長中村洋一氏である。大分県の臼杵の小中学校の校歌に豊後の二孝女が入っているという。なお、引接寺には原好誼軒の墓が弟子たちによって、1852年寿蔵の碑を建て、今でも残っている。
なお、好誼軒の肖像画が画家でもあった庄屋御殿といわれる鈴木家住宅の主鈴木市十郎が墨鮮で書き現存している。(カワサキ商会保有)

秋山みよ

秋山みよ
額田の偉人  秋山みよ 日本赤十字社発行 『百年のあゆみ』より
秋山みよ(日本赤十字社本部病院看護婦長)
那珂郡額田村額田東郷11番地に生まれる。
明治22年7月26日
明治41年4月救護看護婦生徒として日本赤十字社本部病院養成所に入所し44年3月卒業した。同年4月に本社救護看護婦として採用され本部勤務を命じられた。
大正7年3月に病院における諸勤務に従事し、看護業務の成績良好であったためナイチンゲール石黒記念牌を授与された。大正9年勤務成績優秀、部下統卒のの才能を認められ看護婦長に抜擢された。同年10月14日から12月にわたって本社東部シベリア派遣臨時救護班看護婦長として、酷寒の地にあって、傷病兵の救援に従事しその功績によって、大正11年に陸軍省から金100円を授与された。その当時の100円は家が建てられたという。昭和3年、本社の社業に尽力された功績により、特別社員に推薦された。昭和5年伊豆地方大震災に派遣され1カ月にわたり活動、昭和12年の日華事変で茨城支部に招集され看護婦長として陸軍病院志水部隊に従軍、砲弾の雨の中傷病兵を担架で運び烈風激浪をくぐり、困難な海上看護に1年3カ月の間、勤務した。熱心に勤務し、抜群の部下統卒の才能は万人の認めるところ、人格円満につき多くの人々から尊敬され、たと言われる。秋山家の墓は本米崎松原上宮寺にある。

中嶋五峯

中嶋五峯
中嶋五峰 俳句仲間を育てた額田村の俳人 【額田町史】
芭蕉の句碑『松風や落葉か水の音涼し』を建立した人物で 五峰は俳号 額田三日坊とも称する。建立は五峰75歳の時である。中島家には現在も中嶋家に芭蕉の位牌が残っている。48歳の時、全国行脚の旅に出て、松島、象潟(新潟、)松島、須磨等を歴訪し句を詠んだ。自ら『時雨会』を主宰し、沢山の弟子を育てている。
『芭蕉忌やかれ残りたる硯水』『川千鳥夜すから上る声はかり』『干て置き紙子のうへやむめの花』『要害は橋から先やかきつばた』が代表作。

長唄の名手 岡安喜代ハ

額田に長唄の名手となった岡安喜代ハがいる。喜代ハは額田下の町藤田与之衛門の2男として生まれた。名は留二郎、後に久蔵。馬子を業としていた。並木道を歩きながらの唄声は駄馬も勇み、聞く人の心も躍ると言われた。古老の話によると旅籠いづみやに泊った旅人の目にとまり、江戸に連れて行き岡安家に師事、持ち前の美声で芝居座で人気となり、磯部の都都逸坊、額田の長唄の喜代ハの名は轟いた。唄方として江戸で天保の3名人の一人に数えられた。【那珂町史】

吉田松陰と会澤正志斎 そして浄鑑院常福寺

吉田松陰は水戸藩の藤田東湖や会澤正志斎を訪問するため水戸に1851年むかった。筑波山を仰ぎながら、水海道、真壁、太足、赤塚を経て、水戸城下の兵学、剣術師永井政介宅にはいり、滞在中、会澤に7度あったという。また豊田天功にも会うが東湖は謹慎中であり会えなかった。12月に西山、瑞竜山を訪ねることとなり途中、浄鑑院常福寺を訪ねた。元旦は太田の宿で迎え、西山から小場に向かい、江戸村の斎藤権兵衛を訪ね、水戸に戻る。会澤正志斎は新論を著わし額田の鹿島八幡神社に『額田神宮』の額を奉納している。