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2018年10月19日(金)

本田桓虎氏のルーツ

第4次伊藤博文内閣を総辞職に追いやった東京地検検事本田桓虎のルーツは額田北郷であるが上京して消息は不明であったがこのほどネット上からわかることができた。
花谷守正 氏の情報より
参照:
祖父の本田桓虎は茨城県那珂郡額田北郷において本田與八の長男として慶応2年(1866)7月25日出生、その後伯父兵七の養子となる。明治17年10月司法省法学生を拝命、次いで東京帝国大学に入学、同26年仏法科を卒業後司法省に奉職、水戸地方裁判所、区裁判所検事局司法官試補検事代理を拝命、その後東京地方裁判所検事局を経て北海道小樽検事局に勤務中札幌市の開業医馬島氏の娘益子と結婚したが、明治28年12月24日に死別し、旗本大塚霍之烝の娘和歌と再婚、その後司法官待遇改善運動を契機に官途を辞し、弁護士として活躍した。東京都渋谷区原宿2丁目209番地において昭和12年4月22日没、享年71歳。墓地は東京都多摩墓地にある。膨大な蔵書類は東大に寄付された。孫の会で本田会があり、年に数回の会合を重ねている。多くの遺稿は難字と流暢な草書体で我々子孫には解読困難で、一部のみ安武政敏氏にお願いし現代語に翻訳し印刷し一族に配布した。

和歌の父大塚霍之烝が新徴組隊士として京都で活動後、将軍が江戸に引き揚げたので江戸に戻り、慶応4年薩長軍の上野の山攻撃に際し輪王寺宮を救出して彰義隊頭取並第二白隊隊長として活躍。頭取天野八郎と江戸市中潜伏後、慶応4年8月20日幕府海軍旗艦開陽丸に同乗して北海道鷲の木に上陸し、五稜郭を占拠、函館戦争を経て明治2年5月16日榎本武揚の切腹を素手で短刀を握って押し止め(指3本を失う)た。最初は榎本武陽に恨まれたが、彼が釈放され開拓使に任ぜられた後それを補佐し、後年は小樽で榎本の私有地の差配人として助けた。札幌市の開業医(産婦人科)馬島氏の娘益子の兄は馬島勉氏で弁護士である。馬島譲氏は開拓使医師とあり、益子の死後再婚した和歌の父が知人の可能性が有り、其の紹介で和歌が後妻になったかも。
額田の後継者は本田宏一氏である。

本田桓虎像

本田桓虎の写真入手