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額田悠久の歴史 - 奈良・平安時代

額田の成立

大化の改新後、常道(ひたみち)から常陸(常陸)となる茨城の地、額田にも口分田が与えられ、租庸調などの税制もはいってきました。防人や仕丁の苦役は大変なものでした。正倉院の記録に額田部小竜が東大寺の仕丁としてはるばる奈良までやってきて苦役に耐えきれず、逃亡するという話がのこっています。また、防人の苦役もあり鹿島神宮の門前に今でも那珂郡から来た防人の歌が残っています。地方の生活も森戸遺跡から相も変わらず竪穴式住居だった。常道のころ東北はひたみちのおく(みちのく)と呼ばれました。大和王権の進出により、いわきから徐々にみちのくの名もひろがっていきます。常陸の国になってから、じょうりくの奥の陸奥(むつ)となり、いわきが陸奥と呼ばれました。後世になり宮城、岩手、青森と陸奥の国が変わっていきます。坂上田村麻呂の陸奥遠征には常陸からも食糧等の補給の苦役が発生しました。当時は府中(石岡)から渡里、豊喰、額田南郷古新田、米崎、助川から陸奥へ入りました。源義家の陸奥遠征にも同じような常陸の国を通りながらの兵を募ったり、食糧補給を募ったり、それに伴う人の手配もされてきました。中央の力が地方の政治を動かしていき、統一にむけての東北への動きが強まっていきます。【那珂町史】

久慈川べりの防人の碑

久慈川べりの防人の碑
額田から幸久橋を渡ると常陸太田河合に防人の碑がある。
久慈川奈良時代の日本では,諸外国からの侵略を防ぐため,東国から多くの若者が防人として徴収され,筑紫国(現在の北九州地方)へと派遣されました。
『万葉集』には,そんな若者たちが自らの心の内を詠んだ歌が多数収録されており,常陸国出身の防人の歌も10首確認されています。
上河合町にある幸久橋のすぐ側に建っている,防人の碑にはその内の一つで,久慈郡出身の防人である丸子部佐壮が詠んだ「久慈川は 幸くあり待て 潮舟に ま梶しじ貫き 我は帰り来む」との歌が刻まれています。「久慈川よ,清い流れのままで変わらず待っていてくれ,私は潮舟に梶をいっぱい通し,急いで帰ってこよう」という意味を持つこの歌からは,無事に故郷に戻れる保証のない防人として,はるか西の地へと赴かなくならない若者の切ない心境が伝わってきます。
鹿島神宮には那賀郡(那珂郡)からの防人の歌 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)にわれは来にしを が残っています。

平安時代の宗教

中央では唐から帰った空海、最澄が新しい仏教を興した。空海は真言宗で文鏡秘府論がある。また、儒教、仏教、道教を総合的に習う教育機関として綜芸種智院を設立した。最澄は天台宗を広めた。額田ではこの段階はまだ神道のみであった。