メニュー
最新情報
2016年02月02日(火)

額田城のご案内の歴史講座が額田まちづくり委員会で開催予定 

3月15日(火)に額田交流センターにおいて那珂市額田まちづくり委員会(委員長 成田昭夫氏 体育文化部会長 戸祭守男氏)は講師に、観光ボランティア那珂会長の小田部一彦氏を招いて、額田の文化活動の一環として、歴史基礎講座を開催する。
内容については、額田城の歴史と自然で、講座終了後額田城を散歩する;
開催日は3月15日(火) 午前10時

1、額田城のあらまし
 額田城は約340年間額田地区を中心として久慈川を以南、および久慈川を挟んで君臨した。170年を佐竹分家として、後半170年を佐竹家臣として従ったのであるが独立性の強い巨大な勢力を維持してきたのである。その大半が宗家との対立であった。佐竹氏時代は分家の統括的位置にあったし。小野崎氏時代は江戸氏とともに佐竹氏、石神氏とあたり、最終的に伊達氏との結びつきが強まったりしてまさしく戦国時代をいきぬいてきたのである。最初の城主は佐竹義直。佐竹5代義重の第2子で幼名を伊豆王丸、字名は弥次郎または三郎と言い額田に居住し、額田氏を称した。その子孫の義兼は南北朝時代に本家貞義に協力し、足利尊氏に従い戦死、昌直が後を継ぐ。初期は出城的存在であったが領域の拡大により一族の密議の場と変わって10代義亮の時、山入与義(やまいりよりよし)とともに籠ることになる。佐竹惣領家の義盛が死んだ後、上杉憲定の次男で憲基にあたる竜保丸(義憲)を養子として迎え、義盛の娘と結婚させた。山入与義は他姓の義憲が家督を継ぐことに反対し、山入一族、額田氏らの佐竹一族や国人からなる山入一揆を起こし、惣領家と争った。惣領家は鎌倉公方、山入方は室町幕府がついた。応永30年義憲は鹿島、行方諸族を率い、額田義亮を滅ぼし額田城は陥落した。その後義憲は額田城に小野崎通業の孫、通重を入れ、額田氏を継がせた。小野崎2代目は江戸氏から養子を迎え、通栄彦三郎が城主となる。そののち照通まで小野崎氏は7代続き、1591年佐竹義宣に滅ぼされるまで7代170年間額田を治めることになる。


2、那珂市教育委員会で設置した額田城跡案内板
額田城は本丸、2の丸、3の丸が指定され、7万7千平米と面積が掲載されているが実際は3の丸の他に8つの郭があり、東京ドームの21.5倍の面積を誇る。8つの郭は現在住民が住んでいたり、小学校、寺等になっており、城跡指定がはずされているがこれを加えれば茨城県最大の城跡面積である

3、額田城の自然
昭和18年まで額田城跡の南側に有が池という大きな沼があった。四堰から鱗勝院下まで繋がるおおきな沼であった。有が池の南の丘が向山であったという。その名残から水辺の草や植物があり、198もの植物がある。【菅谷在住久下沼先生の調査による。】中でも、コウホネ郡や花菖蒲、姥ユリの群生は見るべきものがある。小川には鯉や鮒、うなぎがいる。大きな欅、樫、杉、ひのきが大きな林を形成している。桜、紅葉、あじさいが見る人のめを楽しませる。本丸堀には地下水が湧き、水芭蕉も育つ。那珂市の天然記念物の柊(ひいらぎ)は圧巻だ。
4、額田城にある植物
198種もあるという額田の植物。額田城は自然の草木の宝庫でもある。アイアスカノイノデ、アオイスミレ、アオキ、アカショウマ、アカネ、アキタブキ、アキノノゲシ、アケビ、アジサイ、アマチャズル、アメリカセンダングサ、アレチギシギシ、イ。イシミカワ、イタドリ、イヌガヤ、イヌガラシ、イヌザクラ、イヌシデ、イヌスギナ、イヌタデ、イヌツゲ、イヌホウズキ、イヌムギ、イノデ、イワガネソウ、ウコギ、ウシハコベ、ウド、ウバユリ、ウラシマソウ、ウルシ、ウワミズザクラ、エノキグサ、エノコログサ、エビズル、オオイヌタデ、オオバコ、オオバジャノヒゲ、オオバノヤエムグラ、オクマワラビ、オドリコソウ、オニタビラコ、オニドコロ、オニノゲシ、オモト、オランダカイウ、ガガイモ、カキドオシ、ガクアジサイ、カナムグラ、カミツレ、カモジグサ、カヤ、カラスウリ、カラスザンショウ、カラタチバナ、カントウタンポポ、ギシギシ、キズタ、キツネアザミ、キュウリグサ、キランソウ、ギンラン、クサイチゴ、クサギ、クサノオウ、クズ、クヌギ、クマワラビ、クワ、ケキツネノボタン、ケヤキ、ゲンノショウコ、コアカソ、コウホネ、コガマ、コセンダングサ、コナスビ、コナラ、コブシ、コモチマンネングサ
ツリフネソウ,ツルマサキ,ドクダミ,トネアザミ,ナズナナミキソウ,ニシキギ,,ニワトコ,ヌスビトハギ,ネコノメソウ,ノイバラ,ノゲシ,ノブキ,ノブドウ,ノボロギク,ハエドクソウ,ハキダメギク,ハコベ,ハナイバナ,ハナカタバミ,ハハコグサ,ハルジオン,ヒイラギ,ヒカゲイノコズチ,ヒサカキ,ヒナタイノコズチ,ビナンカズラ、ヒメオドリコソウ、ヒメジョオン、ヒメヤブラン、ヒメワラビ、ヒヨドリジョウゴ、ヒヨドリバナビワ、フキ、フタリシズカ、フランスギク、ベニシダ、ベニバナボロギク、ベニイチゴ、ヘビノネコザ、ホウチャクソウ、ホタルブクロ、ホトトギス、ボントクダテ、ママコノシリヌグイ、マルバスミレ、マンリョウ、ミズキ、ミズタマソウ、ミゾソバ、ミミナグサ、ミヤマハコベ、ムカゴイラクサ、ムラサキケマン、ムラサキシキブ、ムラサキツユクサ、メナモミ、メヤブマオ、モミジイチゴ、ヤエムグラ、ヤツデ、ヤナギイノコズチ、ヤブガラシ、ヤブカンゾウ、ヤブコウジ、ヤブジラミ、ヤブソテツ、ヤブツバキ、ヤブニッケイ、ヤブニンジン、ヤブヘビイチゴ、ヤブマオ、ヤブマメ、ヤブミョウガ、ヤブラン、ヤマウグイスカズラ、ヤマウルシ、ヤマネコノメ、ヤマイノイモ、ヤマブキ、ヤマユリ、ヨウシュヤマゴボウ、リュウキンカ、リョウメンシダ

5、初代の創立者の佐竹義直
佐竹義直は佐竹五代佐竹秀義の二男で額田城初代城主である。佐竹額田10代の礎を築いた。【義重家譜】には次を常陸三郎義直という。額田の祖なり。と記されている。鱗勝院に秀義を弔うため義直が建立したと伝えられ、佐竹氏の五本骨扇に月丸の家紋が今でも使用されている。菩提寺として佐竹氏の墓石がつたえられている。
6、額田久兵衛と言われた男
平成25年那珂市額田の民家根本家より額田城陥没之記が発見された。
1591年の額田小野崎氏落城からの記録【額田城陥没之記 別名 額田城陥落之記】である。
逃亡の記録の概要としては当時、江戸氏の四天王は谷田部重胤、宿(江戸通澄)、加納通朝、篠原通知であり、谷田部と加納(神生)はライバル同士であった。谷田部(矢田部)と加納の争いに加納氏は額田氏、宍戸氏に加勢を依頼、谷田部は主君を味方につけ、加納を討ち、加納は額田城に逃れる。佐竹本家が加納の引き渡しを要求するも額田氏が拒み、佐竹氏大いに怒り、額田を囲む。
額田勢は小身といえどもその勢い分量を超え七百騎をたもつ。佐竹義宣兵を出すも勝利せず。
佐竹勢、再三の攻撃も額田勢の反抗に為すすべ無く、石田三成を頼り、太閤秀吉の退場勧告を取り付け、太閤奉書をもって、昭通に使者をおくる。奉書かくの如し「速やかに退場せよと、もし違背せば一族残らず共々に科罪に処せん。」
北家の密使により、佐竹菩提寺、天徳寺に退城を勧めあり。南家も逃亡をすすめる。危ゆいとみるや黒羽大関氏を頼る。そこも危ないと内通。日光の中禅寺に逃亡。伊達の使者に迎えられる。伊達政宗を密書の約束通り頼り、落ちる。
【額田城陥没之記】
1599年伊達政宗の娘五郎八姫と家康六男松平忠輝が婚約。
1600年関ヶ原合戦には伊達方として参戦
1602年佐竹義宣秋田移封に伴い、旧領昭通額田氏旧臣が額田城片庭屋敷に戻る
1606年五郎ハ姫松平忠輝に嫁ぐ
松平忠輝に従い、越後窪寺へ
松平忠輝大阪冬の陣夏の陣(1615年)にて軍功なく非礼あり、家康の不興を買い、伊勢朝熊へ配流さる
よって、昭通額田片庭に戻る。
江戸芝増上寺に水戸家から武功の者を求める依頼あり。常州額田に小野崎昭通ありと増上寺国師が水戸家へ推薦
水戸頼房の言「かくの如き武功の士は他国よりも求め得んと欲するところ、自領にいるとは幸いなり。外領に出すことかってこれ有るべからず。」と。「額田民家根本家発見 【額田城陥没之記】参照」
額田城主小野崎昭通、1618年に水戸徳川頼房に仕え、禄600石を賜る。
額田九兵衛を名乗り、これを代襲する。昭通は照通となり、その子定通も孫忠通も九兵衛を襲名する。【那珂市歴史民俗資料館 根本文書より】