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2015年09月29日(火)

古代から気候現象と災害

富士山が噴火して400年、1700初頭の大雨から400年を迎えようとしている。100年に1度の災害を事業仕分けの名のもとに切り捨てられた予算、それに批判が高まっている。政治をおこなうものは歴史を知らねばならないと先人は言ったが。水戸光圀が無くなって8年が経った1708年から災害は始まる。これが400年に1度の災害である。日本はとんでもない時期を迎えることになる。噴火や洪水に致命的ダメージを負う。2100年に向けて予測のつかない災害が起こる。1級河川の堤防は雨量250ミリが限度で造られているという話にびっくりである。過去に本米崎の松原まで久慈川が氾濫したという歴史がある以上、何らかの手を打つ時代が来たのかもしれない。西暦100年代、500年代、900年代、1300年、1708年から40年が過去の大雨の歴史である
。過去に日本の気候の周期として証明されているとすれば、2100年に向けて予兆は始まったと言ってよいのではないか。その前兆は寒暖の差が激しくなるという。今、その前兆ではないか。額田城を築いた佐竹氏や小野崎氏は此の事を知っていたのではないか。水面が10メートル上がるとすれば久慈川も堤防は崩壊する。鬼怒川の堤防の決壊は他人事ではない。相次ぐ全国的噴火はその周期の予兆だとしたら。これが400年に1度の周期の災害がやってきたとしたら恐ろしくもなる。400年前、谷と名のつくところ島と名のつくところ、池と名のつくところ、そして谷津には人は住んでいなかった。今、干拓したところや埋め立てた地区には400年前には住んでいなかったのである。額田地区で此の想定で行くと久慈川の幸久橋の下には現在舟渡地区はないから四堰地区から有が池地区となる。その地区は海抜7、8メートル地区は洪水となる。気象庁はできて100年、400年前の記録はない。けれども、想定外とは言えない歴史的事実があるとすれば対応する時が来たのではないか。400年前、河合、内田、土木内、島、四堰、辛目、坂下は舟を所有していた。60年前までは家の裏に舟が用意されていた。堤防ができて無くなったがその堤防が全国的にやくにたたないとしたら鬼怒川の2の枚となろう。何故、悠久の額田だったのかを考えてみよう。