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2018年09月17日(月)

木田余氏の登用

昭通から木田余氏に宛てた手紙には木田余氏を信頼し、任せるので噂など気にせず、思う存分働いてくれとの処遇としては優遇した手紙で、米崎や島の領地を与えた手紙である。私の意見としては1550年から1560年時代は小田氏に仕え、土浦の地域を任されていた。土浦の木田余城主であった。信田郡からの名主たる信太氏(しだし.).を名乗った。小田氏の中では執事格で家老職に相当する地位にいた。佐竹との闘いや江戸氏の戦いに敗れ小田氏は滅んだ。それに伴い、信太氏(お木田余氏)も宗家は自刃する。そのような名家であり、江戸氏と反目していた額田氏にスカウトされたものと思われる。江戸氏の神生氏や馬場氏の見川氏と同じ立場であったと思われる。その中で優秀であったために眼鏡に叶ったもであろう。特別扱いの手紙と受け取れる。木田余城は

築城年代は定かではない。城主は信太氏で小田氏の家臣であった。

信太伊勢守は佐竹氏への内通を疑われ土浦城で謀殺され、木田余城は小田氏に接収された。その後、佐竹氏と小田氏によって木田余城の攻防が繰り広げられたが、天正6年(1578年)佐竹義重がこれを奪うと破却し廃城となった。?

木田余城は現在の常磐線が分断するように通り、周囲も田畑や住宅となっていて遺構はない。常磐線の東側に案内板が設置されており、そこから地下道を潜った先に石碑が建っている。

線路の反対側には信太範棟の墓がある。ところで、紀貫之は土佐日記を平安時代に書いている。この紀一族の後継に信太氏がある。木田余氏は紀氏からの流れである。こう繋がってくると歴史は面白いその流れを汲む木田余氏が額田に来ていたことになる。