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2019年07月22日(月)

日本画の天才 佐川華谷 本米崎

佐川華谷は慶応3年(1867)米崎村に生まれた。旧水戸藩士松平雪江に師事した。その後、辰の口の野沢白華の門人となり茨城県巡査をやりながら絵の制作に励んだ。明治37年(1904)師の白華が死去しため上京して小室翠雲に師事し、荒木十畝とも交流した。大正9年の第2回帝国美術展に初入選し、入選作品が宮内庁御用品となった。その後も帝展や茨城県美術展(無鑑査)出品し、創作活動に励んだ。華谷の「冨獄図」は県に寄贈され、また、「富嶽神龍之図」は昭和5年華谷が63歳の時描かれた。6曲一隻の屏風図である。画賛の中で富士山は最高のの霊峰であり、龍もまた鱗蟲の長たるものであると述べている。額田神社に太平洋戦争時代の軍艦図がある。村の有志が伊勢神宮への戦勝祈願をし、奉納したものである。額田においても、富士山図が鈴木家、戸祭家、小田部家に残っている。多くのものが本米崎の海老沢家『元屋敷』の美術館に残っている。近郊にあるものを集めたものであるという。故郷の偉大な画人の作品を永く広めていきたいという。元屋敷には板垣退助や大隈重信、根本正からの手紙がある。海老沢家も地元の有力な政治家であった。写真は少年法を作った政治家根本正である