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引接寺


光圀山攝取院引接寺(こうこくざんせっしゅいんいんじょうじ)
ここに、広栄山心岸寺というお寺がありましたが、徳川光圀公がその寺を金砂郷町に移し、元禄9年(1696)この地に光圀山攝取院引接寺を建立し、向山浄鑑院常福寺の末寺としました。常福寺は、徳川光圀公が元禄2年に水戸徳川家菩提寺として建立された寺院であり、常福寺の第三世であった稱蓮社益誉上人が、引接寺開山上人として初代住職となりました。徳一作と言われる本尊阿弥陀如来は光圀の寄進でその背面に「常州額田村に廃寺あり。之を経し之を営み、日ならずして落成す。扁して引接寺と号す。元禄九年十月二十日益誉和尚に請うて開堂し、永く浄鑑の末流を汲む。余適てき阿弥陀如来の一体を得たり荘厳潤色正仏伝の中央に之を安置す。」の刻文がある。【那珂町史】
当寺は、水戸徳川家御神葬式に際し光圀公をはじめ、明治初年まで常陸太田市瑞竜山徳川家墓所に埋葬の御霊柩の宿寺となっていました。額田のたっつぁい伝説の大谷家の墓や、原好誼軒の墓、那珂市の先人で有名な小沼徳重の墓があります。

明治3年(1870)後台源長寺、菅谷浄運寺が廃寺となり、引接寺に加檀され檀徒を益し、寺の基礎が大いに確立されました。

昭和23年に本堂改築、昭和42年に庫裡改築、昭和56年に本堂・庫裡・客殿・山門を改築し、檀家の皆様のご協力を得て昭和57年に落慶法要を行いました。また、平成7年には、開山三百年ご遠忌を迎え、中門左右に記念事業の一環として金剛力士像を造立し、ご遠忌法要並びに力士像の開眼法要を修行致しました。阿吽の呼吸のあうん、左右の金剛力士像の姿に力あふれるパワーを感じ、観光のパワースポットとなっています。

県指定文化財【木造阿弥陀如来立像及両脇侍立像】


  

  
 引接寺の本尊仏。通肩の法衣をまとい、来仰印を結び踏割蓮華座上に立つ像。桧木材で頭部前後を矧ぎ、玉眼・首柄を設ける。体部も前後を矧ぎ付け、 両肩外側部・両袖口・両手首・両足先を矧ぎ寄せる。

面相の表現や、衣文線の彫り、口など定型化し、室町時代末ごろの製作と推定される。

 背面裾の部分に元禄9年(1696年)に徳川光圀寄進の刻銘がある。「常州那珂郡額田村に廃寺あり。日成らずして落成す。扁して引接寺と号す。元禄9年10月20日益誉和尚に請て開堂し、永く浄鑑の末統を汲む。余適阿弥陀如来の古像一体を得たり。荘厳潤色正仏殿中に之を安置す。源光圀(方印)」
 本尊阿弥陀如来は、安良川村(高萩市)八幡宮に奉安してあったものを 光圀が向山浄鑑院常福寺の末寺である引接寺に寄進したものである。
観音菩薩:高髯を結い、頭髪毛筋彫り、耳朶環状、三道をあらわす。天衣条帛を懸けて裳を着け、両手で蓮台を捧げ、腰をかがめて立つ。
勢至菩薩:胸元で合掌するほか観音菩薩と同形。
両脇侍の製作年代は、江戸時代元禄年間と推定される。
菅谷 1606年開祖 常運寺 常福寺末寺 ひだまりの東側墓地が寺跡である。明治3年檀家の大部分が引接寺に引き継がれる。
五台 
源長寺 常福寺末寺で大仏山勝林院源長寺と号す。関東郡代の伊奈備前守忠次の菩提を弔うため代官新家忠兵衛が尽力し、常福寺11代炎誉上人が開基した。1663年の百姓旦那9人、明治3年檀家の大部分が引接寺に引き継がれた。

i引接寺ご本尊 阿弥陀如来木像

引接寺ご本尊 阿弥陀如来木像は徳川光圀寄進で裏面に光圀直筆の刻字がある。
i引接寺ご本尊 阿弥陀如来木像_2