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山入の乱(山入一揆)

山入一揆ともいい,佐竹宗家と山入氏を中心とした佐竹一族の内乱である。応永14(1407)年9月,佐竹義盛が他界した際,相続する男子がなかったため,関東管領山内上杉憲定の次男の竜保丸(のち義仁・義人・義憲と改名)を養子にした。これに対し,佐竹義貞の七男師義の子与義(よりよし)は,同門の稲木義信・長倉義景・額田義亮とともに,源氏佐竹に藤原姓の養子がくることに反対した。これが乱の契機であるが,さらに鎌倉における山内上杉氏と犬懸(いぬがけ)上杉氏の対立,関東公方と室町幕府の対立が複雑にからんで,山入の乱が長期化していくのである。一時,佐竹義憲と山入祐義(すけよし)とが常陸の半国守護となりおさまったようにみえたが,佐竹宗家と肩を並べるまでに至った山入氏をはじめとする一族の結束は強く,佐竹宗家は太田城をおわれ一族の大山氏などを頼る受難の時期を迎えた。乱は佐竹4代約100年にわたり続くことになり,これにより佐竹氏は一時勢力を弱める結果となった。【茨城県立歴史館】

額田城の内堀

額田城の内堀
額田城の内堀は今でも残って往時を物語っているようです。地下水が湧き出て、14、15メートルもあるところがあります。以前は相当深かったのではないでしょうか。モッコや鍬、まんのうで掘った人たちの労苦がしのばれます。