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額田城跡地勢・地図

額田氏の居城は340年の長きにわたり、額田城として存在した。南は有が池があり、北が久慈川で東は水系で繋がっていた。橋もなく、馬で越えるのも川を渡りきるのは困難であった。長年佐竹宗家とにらみ合ってきたわけで戦いは高岡や門部の西側からの戦いとなった。最終的にも佐竹独自の攻撃では落とせず、太閤秀吉の力に頼る退場勧告であった。それほど堅固な城だったのである。額田城は別名久慈見城とも言われ額田のほぼ中央に位置し、南は断崖で有が池に突出し、内堀、外堀と幾重の空堀と土塁の群郭方式であり、中世の要害の城郭である。総構は南北に約800メートル、東西に約1200メートルあり、額田台地が自然の要害である。南に有が池、北が久慈川で難攻不落といわれた。その遺構はほとんど完全な形でのこっているが近郷では類をみない縄張りである。本郭の中央よりやや北の位置に天守跡がみうけられるが天守というよりセイロウ櫓ではなかったかと思われる。井桜と書き井桁を組み合わせた櫓である。小高いところに物見櫓があり、本丸南側に古井戸跡がみうけられた。水府志料に【本丸4360坪、2の丸5300坪、3の丸7000坪あり、佐竹義直始而築き後江戸の族小野崎下野の守善通居る】とあり。現在の本丸、2の丸、3の丸の城跡が指定面積78,000平米としているが、現在の市街地は含まれていない。残りの8つの丸(郭)を加えると茨城県最大の面積、東京ドームの21.5倍となることから大変な城である。額田の宿の4分の3は城郭内にあったのである。

額田城跡を含む額田地区案内板

額田城跡を含む額田地区案内板