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額田城の歴史

額田城は約340年間額田地区を中心として久慈川を以南、および久慈川を挟んで君臨した。170年を佐竹分家として、後半170年を佐竹家臣として従ったのであるが独立性の強い巨大な勢力を維持してきたのである。その大半が宗家との対立であった。佐竹氏時代は分家の統括的位置にあったし。小野崎氏時代は江戸氏とともに佐竹氏、石神氏とあたり、最終的に伊達氏との結びつきが強まったりしてまさしく戦国時代をいきぬいてきたのである。最初の城主は佐竹義直。佐竹5代義重の第2子で幼名を伊豆王丸、字名は弥次郎または三郎と言い額田に居住し、額田氏を称した。その子孫の義兼は南北朝時代に本家貞義に協力し、足利尊氏に従い戦死、昌直が後を継ぐ。初期は出城的存在であったが領域の拡大により一族の密議の場と変わって10代義亮の時、山入与義(やまいりよりよし)とともに籠ることになる。佐竹惣領家の義盛が死んだ後、上杉憲定の次男で憲基にあたる竜保丸(義憲)を養子として迎え、義盛の娘と結婚させた。山入与義は他姓の義憲が家督を継ぐことに反対し、山入一族、額田氏らの佐竹一族や国人からなる山入一揆を起こし、惣領家と争った。惣領家は鎌倉公方、山入方は室町幕府がついた。応永30年義憲は鹿島、行方諸族を率い、額田義亮を滅ぼし額田城は陥落した。その後義憲は額田城に小野崎通業の孫、通重を入れ、額田氏を継がせた。小野崎2代目は江戸氏から養子を迎え、通栄彦三郎が城主となる。そののち照通まで小野崎氏は7代続き、1591年佐竹義宣に滅ぼされるまで7代170年間額田を治めることになる。

額田城跡案内板

額田城跡案内板
那珂市教育委員会で設置した額田城跡案内板
額田城は本丸、2の丸、3の丸が指定され、7万7千平米と面積が掲載されているが実際は3の丸の他に8つの郭があり、東京ドームの21.5倍の面積を誇る。8つの郭は現在住民が住んでいたり、小学校、寺等になっており、城跡指定がはずされているがこれを加えれば茨城県最大の城跡面積である。