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伊達政宗の密書

東日本大震災で被災した茨城県ひたちなか市の土蔵から、戦国武将・伊達政宗が常陸(茨城県)の武士に宛てた密書とみられる起請文(誓約書)が見つかったことが27日までに分かった。

 対立する大名からの離反を促す内容。文化財の保全に取り組む民間団体「茨城史料ネット」の高橋修茨城大教授(日本中世史)は「政宗が関東へ南下する機会をうかがう中で、常陸での蜂起を期待したのではないか」と指摘している。

 土蔵は壁や瓦が壊れる被害があった。所有者の家族が片付けていて「政宗」と書かれた書簡を発見。連絡を受けた高橋教授らが調べた。

 起請文は政宗が1589年(天正17年)、常陸の大名、佐竹義宣の配下にあった額田城(現在の茨城県那珂市)の城主、小野崎昭通に宛てたもの。

起請文の事
1、南郷出馬之上,何有ろうとも入馬候儀,其元へ可有通信之事
1、其元事切候以後、若無事に取成事候者、相談之事
1、中川北に江戸領之内、弓前本意に付而者、可宛行事 此旨偽に候者、梵天、帝尺、四大天王、堅牢地神、熊野三所権現、八幡大菩薩、麻利支尊天、惣而日本国中大小神祇、無紛各々可蒙御討者也、よって如件

起請文の事
1、南郷へ出馬した際、何があろうとも。南郷へ着陣した時には、必ず、汝へ連絡を取ること。1、汝が佐竹と手切れした後東日本大震災で被災した茨城県ひたちなか市の土蔵から、戦国武将・伊達政宗が常陸(茨城県)の武士に宛てた密書とみられる起請文(誓約書)が見つかったことが27日までに分かった。

 対立する大名からの離反を促す内容。文化財の保全に取り組む民間団体「茨城史料ネット」の高橋修茨城大教授(日本中世史)は「政宗が関東へ南下する機会をうかがう中で、常陸での蜂起を期待したのではないか」と指摘している。

 土蔵は壁や瓦が壊れる被害があった。所有者の家族が片付けていて「政宗」と書かれた書簡を発見。連絡を受けた高橋教授らが調べた。

 起請文は政宗が1589年(天正17年)、常陸の大名、佐竹義宣の配下にあった額田城(現在の茨城県那珂市)の城主、小野崎昭通に宛てたもの。
起請文の事
1、南郷へ出馬した際、何があろうとも。南郷へ着陣した時には、必ず、汝へ連絡を取ること。1、汝が佐竹と手切れした後
、もし身柄や所領を保証するような必要が生じたならば、相談に応じること。1、那珂川北岸の江戸氏の所領のうち、佐竹氏及び江戸氏の合戦で本懐を遂げたならば、所領を宛て行うこと。此の旨に偽りがあったならば、梵天、帝尺、四大天王、堅牢地神、熊野三所権現、八幡大菩薩、麻利支尊天、日本国中すべての大小神々の罰を間違いなく蒙るものである。よって件のとおりである。【那珂市歴史民俗資料館資料参照】

政宗の小野崎昭通への信頼

政宗の小野崎昭通への信頼
伊達政宗の書状の中に1593年2月11日付けで小野崎昭通に宛てたものがある。額田城から退去し、伊達氏のもとに身を寄せている際に朝鮮征伐に出ているにも拘らず、出先からも情勢につき、報告のような書状を出していることである。内容は糠田彦三郎殿 『その後、こちらの事(名護屋 唐津)知りたいでしょう。高麗の件につき、大明国よりの勅使が立てられ和議を望んできました。そのため、小西行長が明国の使者を伴い、近日当津(名護屋)へ着舟するとのことです。こちら(秀吉側)でも喜ばしく思われ、使者をもてなすため各自準備を秀吉より仰せつけられました。この分ならばやがて戻れるでしょう。さてさて、昨冬は届けるため上京してくれたこと、お礼の申しようもありません。これらの事は前の書状で明らかですが途中何事もなく帰れましたか。朝夕心配しています。ではまた次の手紙で。恐々謹言。』【那珂歴史民俗資料館講演資料より】これらの手紙からも部下でありながらも配慮が見られ信頼の度合いが強く見受けられる。