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守山藩(郡山市)

松平頼元は元禄6年に65歳で死去した。嫡子大学頭松平頼貞が相続したが、光圀が死去すると5代将軍綱吉は陸奥国田村郡のうち、守山、常陸国の茨城、行方、鹿島3郡で2万石の領地を受け、守山藩を創設、水戸藩から受けていた2万石は宗家水戸家に返した。守山藩は水戸家の連枝の藩で参勤交代も免除された。【那珂町史】

守山連枝

水戸家初代頼房の子、光圀の異母弟松平頼元を藩祖(常陸額田藩)としますが、元禄13年(1700)その子頼定の時に額田を返上し、新たに田村郡守山を はじめ常陸行方郡、鹿島郡、茂城郡にに封を受けました。当初は鹿島郡松川村に陣屋がおかれましたが、その後宝暦6年(1756)に守山の地に陣屋が移され 守山藩となりました。藩主と家臣の大半は江戸在府のため、あくまでも郡奉行による代官支配のための陣屋として築かれたものと思われます。付近には小姓町、 殿町などの陣屋関連地名が残されています。
 陣屋は南北朝期から近世初期にかけての城郭である守山城の西側に隣接する市街地に所在する平城形式の2千坪ほどの小規模なもの。その中に有って、天狗諸生の乱では天狗に加わり処罰される藩士もでた。小藩ゆえに戊辰戦争時には奥 羽列藩同盟に加わったものの、戦うことなく政府軍に降伏し守山陣屋はそのまま会津攻略のための新政府軍の後方支援拠点となったといわれています。
 みと
守山連枝