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伊達氏と額田

伊達政宗が額田城主小野崎昭通(あきみち)に宛てた密書が見つかって数年経つ。
伊達氏との関わりがあったことで額田城跡が大きく見える。
ところで伊達政宗は伊達氏の系譜の中で二人いる。九代政宗と十七代政宗である。
ここに言う政宗は、「独眼竜」でお馴染みの十七代政宗である。
政宗の妻は福島の田村郡を領地とした田村氏の出で、田村氏は坂上田村麻呂に系譜を発するという。
伊達氏は名家との縁組による政略結婚で、東北支配を固めていったのである。
その伊達氏の祖は関東武士であり、筑波山麓の伊佐庄(いさのしょう)中村(現:筑西市)を本拠として、伊佐あるいは中村を名乗った。
当主朝宗(ともむね)のときに、源頼朝の奥州平泉征伐に従軍し、信夫伊達(しのぶだて)地方(現在の福島市・伊達市周辺)の土豪で信夫庄(しのぶのしょう)庄司の佐藤基治一族を破った。
その功で伊達郡を与えられた朝宗は、その地に移住すると共に「伊達朝宗」を名乗ったという。
これが、奥州伊達氏の始まりである。
ところで、額田にも「伊達」という地名があることをご存知だろうか。
現在の額田東郷永井地区辺りである。
この永井地区には、地元の人が「鍋ふた山」と呼んでいる「伊達古墳」(額田東郷地内:N36.498563/E140.5366297あたり)がある。また、地籍上にも「伊達」の文字を見ることができる。
幕末の東北諸藩は、参勤交代時に奥州街道ではなく、この額田を通る棚倉街道(現在の国道349号線)を使ったといわれ、その街道沿いの馬坂(うまざか)の東側に位置するこの地域が、休憩所か何かで関わったのではないか。あるいは、密書に関わる伊達氏の兵卒の一部がこの地域に駐屯していたとか……。想像を掻き立てられるところである。
2018年5月20日 一彦
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