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2018年06月03日(日)

水戸藩家老山野辺氏にちなむ一行が那珂市訪問

山形県山辺町より26名が6月3日、常福寺(那珂市瓜連)に先祖の霊を訪ねてやってきた。お墓参りの旅でもある。水戸徳川家の代々家老も務めた山野辺氏のゆかりの人たちが出羽の国からやってきたわけでもある。常福寺は徳川家康、家光から100石の朱印状により寺領を与えられた。徳川家菩提寺の芝増上寺から常陸国本山の命を受けている。水戸徳川家も菩提寺として保護した。山野辺義忠は出羽の最上義光の4男であったが家督相続の最上騒動で岡山藩に預けられた。のちに許され、家光の幕命により、水戸藩徳川頼房の家老(1万石)となった。と同時に常福寺の旦那となった。境内にある山野辺家5輪塔の墓石は山形から村継ぎにより運ばれたという。義忠の息子義堅も家老職を継ぎ頼房の娘利津を婦人とした。代々家老職を継ぎ、斉昭の時代は義観(よしみ)となる。義観は文政12年(1829)の10月、水戸藩主継嗣問題が起こった。その際、会沢正志斎や藤田東湖らとともに斉昭の擁立に走り、成功を収めた。斉昭の信頼を得て、天保の藩政改革に貢献し、また、天保5年、12万石増封実現に向けて、斉昭の名代として交渉にあたった。天保7年に海防総司の命を受け、助川海防城主(日立)となり、1万石の知行地をあたえられ、家臣247人とともに土着した。山野辺家墓石は義忠、義堅、義忠の長子等が眠っている。義観以降は高鈴町の山野辺家墓所に眠っている。ところで常福寺境内に乳母神地蔵がある。そのいわれをみると次の通りとなる。山野辺家に仕えていた乳母がある時、遊び盛りの殿様の子が誤って井戸に落ちるのを防げず、助け出すこともできなかった。気が狂わんばかりに自責の念に駆られた乳母は、泣く泣く殿様に向かい、「お詫びのしようもない。私の不徳の戒めとしてわら縄かけた観音として、生まれ故郷の常福寺に葬っていただければ、今後の御代と殿様とご出産されるお子についてもお守り申し上げましょう。」と言上した。殿様はこのまごころからの乳母の心に感じ入り、乳母を許した。乳母の死後は願いのように観音様をつくり、わら縄をかけ、常福寺に乳母神として供養された。後世になっても、村人たちは新しい縄を作って取り替え信心することによって赤子が無事に育つと伝え今でも信仰されている。